台湾の予科練習生

4月 23rd, 2010

みなさんこんにちは。

昨日からまた急に寒くなりましたね。

雪が降ったところもあるとか。

体調管理に十分お気をつけくださいね。


本日予科練平和記念館には、海を渡ってお客様がいらっしゃいました。

元特別丙種第1期予科練習生と奥様のあわせて4名です。


右から 徐さん 謝さん 劉さんと奥様


特別丙種予科練習生とは、太平洋戦争当時日本の統治下にあった

台湾と朝鮮半島から選抜された予科練習生のことです。

優秀な少年たち100名が、1944(昭和19)年12月に

鹿児島海軍航空隊(鹿児島県)に入隊しました。


1945(昭和20)年に入り、日本本土への空襲が激しくなると、

彼らが訓練していた鹿児島空も空襲によって壊滅状態となり、

新しい訓練先として向かった土浦海軍航空隊(現陸上自衛隊武器学校)も

空襲で大きな被害を受けてしまいました。

焼け残った兵舎で終戦を迎えた彼らのうち、朝鮮半島出身者は間もなく帰国。

台湾出身者は自炊しながら帰国船を待ち、基地を進駐軍に引き渡すための作業を続けました。

ほかの練習生や教官たちが次々と復員していく中、彼らは

予科練教育の中心地だった土浦海軍航空隊の最後を見届けたのです。

連絡航路が再開され、母国台湾に帰れたのは年が明けてからのことでした。


戦後台湾は日本領から中国領になり、

日本の軍人だったという経歴を持つ特別丙種予科練習生には、

言い尽くせない様々なご苦労がありました。

生活が落ち着いた頃、「高志飛会」という会を立ち上げ、毎年同期生で集まったり

当時の教官たちを家族ごと台湾に招待したり、という交流を続けていらっしゃいました。


2008(平成20)年、16年間続いてきた高志飛会は解散。

当初50名だった元予科練習生たちは、このとき20名になっていました。


今日は、当時の上官だった金子さんと橅木(かぶらぎ)さんもご一緒にいらっしゃり、

つもる話で盛り上がります。

劉さんたちは子どもの頃日本語教育を受けたので、流暢な日本語で話され、時には冗談も

飛び出します。

台湾の皆さんは80歳以上。金子さんと橅木さんは90歳近いお年です。

皆さんのお元気さに嬉しくなると同時に、戦後65年を経てもつながる確かな絆を感じました。

国を超えて時間を越えて、心と心の交流を続けてきたからなのだと思います。


常設展示室1「入隊」には、特別丙種予科練習生を紹介するコーナーがあります。

そこで七つボタンの制服を着たご自分を見つけた謝さん。



徐さんも見つけたようです。



ロビー3には、劉さんの言葉が壁面にあります。

これは、劉さんがお写真を提供してくださったときに、その目録に書かれていた言葉です。

「ああ、ありがとう。ありがとう。これ私の言葉だ。」とおっしゃった劉さん。

奥様と一緒に記念撮影。



「あの戦争はもう遠い昔の物語となった。

半世紀以上に渡る経過で、国・社会・人間は様々に変わったが、

是非は別に、国の為、陛下の為、親兄弟の為に敵と相打つ覚悟で

特攻隊員たらんと志願入隊した当時の私達は、

純真無垢な少年だった事は確かであり、

それはいくら時間の風化でも変えられない

私たちの歴史の一節である。」


と書かれています。


台湾、朝鮮半島からきた練習生たちは、当時日本の名前で呼ばれていました。

展示室1の壁面ケースに展示してある特別丙種予科練習生の名簿には

実名と日本名が併記されています。

日本人として国のために戦った特別丙種予科練習生たち。

私たちが知らなければならない、忘れてはならない歴史です。

常設展示室内のほか、ラウンジでは台湾予科練生の戦後の写真を

あつめたアルバムをご覧いただけます。

また町発行の図書『続・阿見と予科練』には、劉さんの

インタビュー記事が載っていますので、ご来館の際にはぜひご覧下さい。



「台湾に遊びにおいで」と劉さんは何度も言ってくださいました。

徐さんは台湾のおいしい果物やマンゴーの種類について教えてくださいました。

予科練に入隊して大学進学をあきらめ、戦後の台湾では大学進学ができなかった

ことをお話してくださった謝さん。

「何故俺は台湾に戻ったんだ・・・!」と思ったのだ、という言葉からは、戦争によって

自分の未来が変わってしまうという、辛いできごとを経験された時の思いを感じ、

しばし言葉が出ませんでした。


そして90歳近くなってもなお、当時の教え子のために集まった金子さんと橅木さん。


人が生きるということは、どういうことなのかを教えていただいた気がします。

いろいろなことがぐるぐると頭の中をめぐって、言葉にするとことができない

たくさんの感情がわきあがってきて、

今、こうして生きている私にできることは何だろうと考えました。


そして、それは多くの国を巻き込んだ戦争があった時代に、それぞれの立場で

一生懸命に生きたたくさんの方たちのことを

この予科練平和記念館から広く伝えていくということだと思いました。

このブログでも、いろんなことを皆さんにお伝えしていければと思っています。


台湾予科練の皆さん、そして金子さんと橅木さん。

今日はお会いできて本当によかったです。

ありがとうございました。

皆さんが無事にお帰りになることと、今後の益々のご健康をお祈りいたします。


土浦駅でお別れのとき、「またね。私も頑張ります。」と言って

にっこり笑って手を握ってくれた劉さんの奥様。

握り返したその手は、柔らかくてあたたかでした。