元予科練生インタビューから

12月 21st, 2012

  今年の冬は寒いですね。最近では、冬至は日が短くてもなんとなく暖かかったものですが、11月から「おっ、寒いな」と思う日が非常に多い本年です。先日の天気予報で学習したところでは、偏西風の流れが例年より南に下がっている(蛇行している)ため北極圏の寒気が日本にも入りやすくなっているそうです。

 おそらく地球は人類という我がまま勝手な暴君に手を焼いているのだと思います。変にストレスが溜まり、調子悪くなっているのではないでしょうか。

 子孫のためには、現在の状態が薬を飲めば治る「胃炎」程度であることを願いたいものです。われら生き物の母なる地球を「不治の病」に追い込まない知恵が私たちに求められていると思います。

 

 地球を破壊しないことにもつながりますが、戦争のない、つまり殺し合いをしなくてすむ社会の実現を目指して、予科練平和記念館では元予科練生など昔を知る方々にインタビューを行い、その知恵が詰まった経験談を記念館で放映し、ご紹介しています。

 生きた知恵というものはたった一度きりの人生と真剣に向き合った方からしか得られないものだと思います。その意味でも、今後さらに1人でも多くの方からお話しを伺いたいと考えていますが、今回のブログでは、先日インタビューに応じてくださった方をご紹介いたします。

 

 ご紹介するのは大東秀夫さんです。

 大東さんは昭和3(1927)年に横浜でお生まれになり、現在は笠間市にお住まいです。85歳でいらっしゃいますがたいへんお元気で、さすが予科練で鍛えた方は違う、と私が心底脱帽するお一人です。

 昭和18年12月、15歳の時に乙飛24期生として三重海軍航空隊に入隊され、水上機パイロットへの進路が決まっていたそうです。横浜生まれの大東さんの心残りは、憧れていた土浦海軍航空隊への入隊が果たせなかったこと、とのこと。しかし、当時の若者らしく、予科練に入りお国のために役立ちたい一心で、予科練に入隊できた喜びそのままに訓練の日々はとても充実していたと笑顔でお話しになりました。

 大東さんの周辺では戦争の状況についての情報がほとんど得られなかったそうです。ですから隊内では「特攻」についても何も分からないに等しい状況だったようです。

 ただ、昭和19(1944)年10月には、現在真珠の養殖地で知られる三重県鳥羽市賢島へ移動し「震洋」の特攻基地建設に従事されました。その時も造っているものが何のためのものかは当然知らされず、だから何も分からなかったそうです。

 大東さんは運動神経が特に優れていたそうですが、その点からも白羽の矢が立てられたのでしょう、昭和20(1945)年3月には「伏龍」特攻隊員に選抜されました。

 伏龍については情報が少なく、今回のインタビューでは貴重なお話しを伺うことができました。記念館でも準備が調い次第、大東さんの映像を皆様に見ていただく予定です。

 ここでは、インタビューの概要をご紹介します。

 特攻隊選抜を言い渡されたときには、具体的な任務を知らされることなく、横須賀海軍水雷学校への転属を命じられたそうです。同期の中では大東さんだけが選抜されたこともあり「やるぞ」という強い使命感が湧いてきたそうです。毎日土を掘ることではない、戦うことができると気合いが漲ってきたとのことでした。

 横須賀ではじめて「伏龍」特攻であることが知らされ、内容を知って驚かれたそうです。

◇10名単位で組になった。

◇水に入る訓練→夜間に水に入る訓練→簡易潜水服を着用し、頭に浮き袋を付け(隊員の位置を知らせるためのもの)海へ潜る訓練。

◇とにかく重いため、海へ入るまでの砂浜を歩くのが大変だった→浮力が働くため海に入ってからの方が移動は楽だった。

◇海中では自由に歩き回ることなど出来なかった。頭と足の位置で水圧が違うため立っていられず、海底を手で這いながら移動した。

◇目的の地点に着くとクルッと仰向けになり水面を見ながら機雷棒を構えた。

◇深度10メートル程から見上げる太陽は満月のように見えた。

◇機雷棒は海流のために自由に扱えたとは言えなかった。

◇酸素弁を調節し、水深に応じて酸素を出すが、海から上がるときが大変で、潜水服中の酸素を抜きながら上がるため調節に失敗すると潜水服が破裂し溺死する危険があった。(装置の付いた潜水服は自分一人では着脱できないものだった)

◇訓練は潜水服の数が少ないこともあり、1人ずつ行われた。悲壮感をもって訓練をしたというより、少年であったために新しい遊具に挑戦するような気持ちでもあったとのこと。

◇大東さんの班では事故は1つもなかった。他班で事故があっても知らされることはなかった。

◇訓練中、伏龍については大東さんも実効性に疑問をもったとのこと。しかし、上官の命令は「天皇」の命令と教育されていたため、それ以上のことは深く考えなかった。

◇終戦になると特攻隊はすぐ解散となり、大東さんは実家が横浜だったためすぐに帰郷できたとのこと。

 戦後、大東さんは家族で唯一の男手として文字通り身を粉にして働き続けてきたそうです。その大東さんも「絶対に戦争をしてはならない」と強いメッセージをお寄せ下さいました。

 戦争の残酷さ、悲惨さ、無意味なことを是非とも発信し続けてもらいたい、元予科練生の大東さんから予科練平和記念館がいただいたメッセージです。

 戦争を実体験したことがない人間の集まりでもある予科練平和記念館です。しかし、臆することなく、先人の声を自身の声として、来年も引き続き普及活動に努めたいと考えています。