企画展「甲飛14期生」⑤

3月 6th, 2013

戸張礼記 氏(甲飛14期・陸戦特攻)

 

 昭和16(1941)年、地元(阿見)の君原尋常高等小学校を卒業し、県立土浦中学校(現土浦一高)に進学した。経済的に余裕があり父親が教育者という環境では自然の成り行きだった。その頃からいずれは軍人になりたいと思っていた。当時の男子ならだれもがそうだったように、飛行機乗りになって自由に大空を飛びたかった。

 部活動は滑空部に入った。校庭を拡張した訓練場で、長さ8メートルほどの翼を付けたグライダーを操縦し、初めて地上を離れた時の感激は今も忘れられない。漠然としていた空への憧れがより強くなった。

 昭和17年1月、父が突然倒れた。それまでは憧れで予科練に入りたいと思っていたが、父の死で、母や兄弟を守るために軍人になろうという気持ちが強くなった。

 昭和19年、中学4年のとき志願して予科練の入隊試験を受けて合格。6月1日、土浦海軍航空隊に甲種飛行予科練習生の第14期生として入隊した。土浦中学から約10人が同期で入隊したと記憶している。

 入隊して約1ヶ月間は外出も禁止で「新兵訓練」と呼ばれる基本的な訓練をみっちり仕込まれた。慣れないこともあり一番苦しい時期だった。明けても暮れても体力の限界に挑戦するような予科練の生活は、地獄そのもの。吊床に寝て「やっとこれで一日が終わった」と感じる時が唯一ホッとする時間だった。

 十歳年上の兄は日本大学本科の学生だったが、私が入隊して間もなく予備学生として土浦海軍航空隊に入隊した。(中略)ある日、兵舎内で吊床訓練をしていると、兄がいつの間にか窓の外に立って私を見ていた。訓練中だったので、声を掛け合うことはできなかったが、きっと兄は私のことが心配だったのだろう。その後、隊内で兄に会ったことは一度もなかったが、同じ所に肉親がいるというだけで随分心強かった。

 入隊から9ヶ月が経過した昭和20年3月15日、私たちの分隊は土浦駅構内の汽車の中にいた。青森県の三沢基地に転隊するためだ。部隊の移動は秘密で、敵艦載機の銃撃を避けるため移動は夜間に限られていた。昼は、シャッターを下ろした車内で、ただじっとしていた。退屈で仕方がなかったのを覚えている。三日三晩かかって、青森県の古間木駅に到着したのは真夜中。翌朝、小川原湖近くに点在していた仮兵舎に着いた。当時、三沢基地には土浦の同期約1千人の隊員はいたが、飛行場周辺に、飛行機を爆風から守る掩体壕を造るのが主な仕事だった。トラック用のガソリンも不足していたため、トラックに綱をつけて数人がかりで引っ張って動かした。体力的にもきつかったが、飛行機に乗れないことに何より失望した。

(中略)

 7月25日、三沢基地から大湊海兵団(青森県)に転隊になった。津軽海峡に近い、下北半島の石持という部落の山林に幕舎(テント)を設営して寝起きし、本土決戦に備え、自分で掘った直径1mほどのタコ壺に潜み、上陸してくる敵戦車の下に爆雷を抱えて飛び込む訓練を続けた。終戦はそこで迎えた。ラジオがなかったので玉音放送は聞けなかったが、幕舎の前に整列して「戦争は終わった」と聞かされた。あまりにも突然で、すぐには信じられなかった。負けるとは思っていなかったので実感がわかなかった。

(中略)

 8月25日、復員命令が出た。軍服や下着、配給米、毛布などの入った衣嚢を担ぎ、軍刀を手に汽車に乗り込んだ。途中、仙台駅のホームで一泊、飯盒めしを炊いたりしたのだが、駅員さんが何かと気を配ってくれた。時が時だけに人の親切が心に染みた。(「等身大の予科練」から抜粋)