イベント報告(元予科練生のお話会)

7月 21st, 2011

 皆様、暑中お見舞い申し上げます。

 

 今年は梅雨明けすぐに猛暑となり、平穏に生活を続けることが厳しい夏となっています。大震災の影響もあり節電に努めなければなりませんから、私たち一人一人の生きる知恵が試されるときです。「災い転じて福と成す」老若男女が一段階上の人間となるための夏とも言えるのではないでしょうか。メラメラと燃え、かつクールに時を過ごしましょう。

 

 さて、アスファルトに陽炎立つ日曜日(7/17)、元予科練生のお話会が当記念館にて開催されました。「激闘予科練」と題され、元予科練丙種12期生の橋原正雄様、そして元甲種14期生の戸張礼記様お二人からお話をうかがうことが出来ました。

 

 

 私がまず驚いたことはお二人のお元気さ。むしろ頑丈さと言えばよいでしょうか。橋原様は87歳、戸張様は82歳でいらっしゃいますが、まだ若年の私が恥ずかしくなるほどお元気です。背筋がピンと伸び、やはり、お若いときの鍛え方が年齢を重ねられた後に現れてくるのでしょうか。この暑さの中、それだけで私はすでに脱帽しました。

 

 当日は、山口県の海上自衛隊小月教育航空隊の皆様が研修にご来館されており、元予科練生の講師お二人も感慨ひとしおでいらっしゃったようです。

 

 

   お話会の内容ですが、当記念館歴史調査員でもいらっしゃる戸張様が、歴戦の強者でいらっしゃった橋原様のご経験談を引き出してくださったものとなりました。

 

 終戦の前年1944年(昭和19年)10月に行われたレイテ沖海戦(フィリピン)において、橋原様は第一遊撃部隊(栗田第二艦隊)の旗艦愛宕(巡洋艦)にて作戦参加をなされました。レイテ沖海戦とは、戦艦武蔵が撃沈されたこと、また初めて特別攻撃(特攻)が行われたこと、などの史実が残された戦いでした。

 

 ここに橋原様がお作りになった資料のあとがきを要約し、掲載させていただきます。どうぞ、実戦を体験された方からのメッセージをお受け取りください。 

 

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 昭和19年10月25日を期して決行された、わが連合艦隊のレイテ湾突入作戦は、太平洋戦争中最大なものであったばかりでなく、空前のものであったろうと思われます。

 

 連合艦隊は水上艦艇、航空母艦、潜水艦、基地航空隊とありとあらゆる総兵力を動員しました。アメリカ海軍もまた全兵力を集中して戦いました。レイテ沖海戦は海上戦闘の定石たる両軍主力の洋上決戦ではなかったため、作戦の内容が一層複雑になったと私は考えています。

 

 レイテ沖海戦において、私は同作戦の核心となった第一遊撃部隊(栗田第二艦隊)の旗艦愛宕にありましたが、同海戦の惨憺たる光景は今なお脳裏に焼き付いていて、昨日の出来事のようにはっきりと目前に蘇ってきます。

 

 連続4昼夜にわたる陰惨極まりない悪戦苦闘にもかかわらず、連合艦隊の将兵は不眠不休、それこそ精根尽き果てるまで最善を尽くして奮闘しました。

 

 私は終始戦闘配置にあって、艦と共に沈みゆく数多くの戦友の最後を見ました。唯々、戦友は祖国の前途に明るい光が差すこと願っていただろうと思います。

 

 私は戦争を体験して痛切に思うのです「世界中のどこにももう二度と戦争があってはならない」と。太平洋戦争についても、またレイテ沖海戦についても様々な考え方があると思いますが、私は戦争をしない知恵こそ重要だと思います。たとえ戦地で敵となっても、戦う個々に何の恩讐もないのです。

 

 こうした私の思いは戦友の面影に背中を押されて、作戦における事実を正確に記録し後世に伝えようとします。また戦争があってはならないと述べることは、私の当然の義務と考えるのです。

 

 最後に、レイテ沖海戦において命を捧げ、世界平和の礎となられた戦友の御霊魂の永久に安らかならんことを私は祈ってやみません。

(※橋原様は全8ページの資料をご用意くださいました)

 

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予科練平和記念館イベントについてお知らせいたします。

 

 7/24(日)歴史調査員講演会「阿見大空襲の悲劇」

 

 ◇講師  赤堀 好夫 氏(予科練平和記念館歴史調査員)

 

・昭和20年(1945年)6月10日の朝、阿見町は予科練を中心とした霞ヶ浦沿岸全区域にわたる米軍の大空襲により甚大な被害を受けた。これらの様子を、当時、被災された方々のお話を中心に講演していただく。

 

◆場 所  予科練平和記念館20世紀ホール

◆時 間  14:00~15:00

◆観覧料が必要です(予約不要)

 

お問い合わせは予科練平和記念館まで

電話 029-891-3344