特別展「回天」最終章

11月 22nd, 2012

 11/20(火)から予科練平和記念館では企画展「甲飛14期生~特攻が始まった年の入隊者たち~」が始まりました。

 今夏に開催した特別展「回天」では、回天特攻に関わった甲飛13期生をご紹介しました。回天搭乗員となったのは昭和18年12月の後期入隊者たちでした。

 その翌年、昭和19年に甲飛14期生は入隊を果たします。甲飛13期生も約28,000人もの入隊者を数えたわけですが、甲飛14期生は予科練史上最高の4万人超でした。

 その数には日本の戦局悪化が如実に表れており、また昭和19年10月に始まった特攻作戦によって予科練生の訓練内容や進路に大きな影響が出ることとなります。

 かつて海軍の航空戦力を力強く支えた予科練も、終戦間際には時代に翻弄された感は否めず、優秀な人材が失われたり、その能力を充分に発揮できなかったと言えるでしょう。  

 甲飛14期生を通して、戦争や予科練について皆様にも様々に考えていただきたいと思います。

 また、館所蔵の未公開資料も多数展示しておりますので、どうぞご来館下さい。

 

 さて、先回のブログに引き続き、元回天搭乗員・塩月昭義様の講演会レジュメをご紹介します。シリーズで回天のことをご紹介するのはこれで最後となりますが、予科練とも直接的につながる回天を通して、これからも皆様と様々に考えていきたいと思います。

 

【回天の事故と故障】

 導入できる新技術をすべて取り入れたとは言え、ほとんど試用期間も取れず操縦法も手探りで始めるしかなかった回天は、乗り物としては極めて不完全で訓練中に故障や事故が頻発した。

「回天の故障」

 〈冷走〉 エンジン起動時に点火せず燃焼ガスも高圧水蒸気も発生しないためにほとんど出力がなく走行不能で訓練は出来なかった。過度に低速にすると冷走することがあった。

 〈気筒爆破〉 エンジン起動時に燃焼室に海水の注入ができず燃焼室が溶損する故障。

 〈出力不足〉 魚雷は爆弾や砲弾と同じでただ一回の使用に耐えるだけの強度しかなく通常の内燃機関にあるピストン・リングもないため注意しないと摩耗による出力低下が起きる。

「訓練中の事故」

 〈イルカ運動による海底突入〉回天の横舵機は深度制御と姿勢制御(走行中に指定された深度をとり出来るだけ水平に近い姿勢を保持するための制御)という2つの機能を全うしなければならないため、潜り始めに尾部が浮いて大きな水しぶきをあげたり浅い深度で高速走行すると水面に飛び出したり潜り過ぎて浅い海では海底に衝突あるいは突入するいわゆるイルカ運動を起しやすい。海底は砂や岩が普通で衝突してもさしたる問題はないが、河口の先では泥沼になっているところがあり突入するとスクリューの逆回転機能のない回天は自力では脱出できなかった。

 〈衝突〉回天には特眼鏡という小型の潜望鏡がついていたがこれは浮上した時の海上観測用で水中ではせいぜい数メートルしか視界が効かずしかも走行中にはかなりの流圧がかかるので必ず特眼鏡は引っ込めて潜ることになっていた。そのため水中では盲目走行で自分の位置を知るには海図上の進路に時間と速度の積で計算した距離を記入して現在位置を知るしかなかった。この計算を間違えると潜ったまま島や陸岸に衝突する危険があった。

 また回天では浮上するときに頭上に何があるか知る方法はなく、たまたま浮上したところに船や浮遊物があれば衝突し重大な事故となった。

 さらに航行艦襲撃の訓練中に横舵の動作に異常があって指定した深度より浅いところを走行していて目標艦の艦底に衝突する事故があった。襲撃は全速で突入するのでこの場合の衝撃は極めて大きく回天の艇体は大きく破損するので搭乗員はすべて死亡した。

 

「大神基地における事故」

 〈衝突事故〉航行艦襲撃訓練たけなわのころ久堀隊長が訓練の帰途、見張り船(回天の訓練を見守りかつ訓練海面に民間の船が紛れ込まないように監視する船)に衝突して特眼鏡を壊した。その数日後今度は私が訓練に赴く途中に見張り船の制止も聞かず紛れ込んできた機帆船(焼玉エンジンと帆を併用する民間の小型船)に衝突した。どちらも一歩まちがって回天のどこかに穴が開いて海水が入れば沈没はまぬがれなかった。苦笑いをして上がってくるか別府湾の底で魚の餌になるかの違いはほんの数秒か数十センチの差でしかなかった。

 このような不可抗力ともいえる事故ばかりでなく故障発生時の搭乗員の応急処置如何により助かるものも助からないことがあるので搭乗員たるものは多数の応急処置のすべてを知悉し事故の状況に応じた最適の処置を選ぶ必要があった。

 2つの事故を見た大神基地隊の司令は我々久堀隊4人に特別休暇を命じた。翌日、弁当や缶詰を詰め込んだ籐製の小さなピクニック籠を下げて、クラブ契約のしてあった近くの網元さんの家に行き風通しのよい二階の大広間の畳の上に寝そべって古雑誌などを読みながら過ごした一日は文字通り忙中閑の楽しい思い出である。

 〈海底突入事故〉第一次出撃隊の訓練が終わり、我々が第二次隊員達の訓練の応援に忙しかったときに大神基地での最大の事故が発生した。7月25日に私は隊長と一緒に目標艦に乗っていた。午後3時にその日最後の原村隊員の発射が予定されていたが大分手間取っているなと思っていると追躡艇が全速で近づいてきて回天を見失ったという。隊長は“射点沈没(発射地点での海底突入)の算、大なり”と素手で発射指揮所に手旗信号するとすぐ目標艦で発射地点に引き返し、薄暗くなった海面に僅かな気泡を見つけて“ここだ”と指差して錘のついた浮標を入れさせた。

 先任隊長が救助作業の指揮者になり、サーチライトをつけて潜水夫を入れ尾翼にワイヤーをかけて引っ張っても、半分以上を泥沼に突っ込んだ回天はびくともしなかった。対岸の大分航空廠から駆けつけてくれた救難艇で引っ張ってもだめであった。

 私は作業船に先任隊長と一緒に乗り込んで発射指揮所の司令との連絡信号手を務めた。その当時の夜間の近距離通信はもっぱら懐中電灯の点滅によるモールス通信であった。

 訓練用の回天には頭部の爆薬室に海水を満たしておき事故で沈没したときに圧搾空気で排水して浮上する応急ブロー弁用のコックが操縦席の横にあった。原村も操作してみたが泥沼の圧力で排気弁が開かずあきらめたと後で言っていた。

 空襲警報が鳴り潜水夫を引き上げてサーチライトを消し、爆音が遠くなるのをじっと待っている間に先任隊長が“今あいつを死なせると後が大変だなー”とぽつりと言った。それを聞いた私は何とか助けなければと思った。

 10時間といわれた酸素欠乏の限界時間が近づいたとき、残された手段は回天にかけたワイヤーを回天と直角の方向に引くことしかなかった。回天が折れれば搭乗員を助けることができないかも知れないことを覚悟しての決断であった。

 ほぼ垂直に飛び上がるようにして浮上した回天が水平に落ち着くのを待ちかねたように飛び乗って金槌でハッチを叩いた先任隊長が中からの確かな応答を聞いて“生きてるぞーっ”と叫んだとき、まわりに集まっていたすべての作業船の上から一斉に“うぉーっ”という歓声が上がったのを忘れることができない。

 桟橋で待っていた軍医長と一緒に担架に付き添って白々と明け始めた坂道を医務室に急ぐ途中で“本日の総員起しを07:00とする(徹夜した作業員にしばらくの睡眠時間を与える)”という隊内放送を聞いた原村が“おれのためにみんなにえらい迷惑をかけたなー”というのを聞いたとき、軍医長の心配していたガスによる神経障害はないなと安心した。

 回天には事故で長時間閉じ込められたときのために通称“提灯”という炭酸ガスを吸収して酸素を放出する化学装置と長時間の事故のための応急糧食が用意されていた。提灯を開いたのは当然としても、応急糧食まで開けて全部平らげたという原村の研究会での報告にはみんなあきれた。司令以下2千人に及ぶ基地の全員が如何にして助け出そうかと苦慮しているときに当人は平然と非常食料を平らげているとはあきれた神経である。潜水夫の靴音やワイヤーの音が聞こえていたので助かると信じていたという。応急糧食の中身は言わなかったが素晴らしくうまかったそうである。

〈漏水事故〉回天の整備作業が終わると仕上げとして漏水がないか確認するために必ず“水漬け”という試験が実施された。魚雷調整場の横にある細長いプールのような水溜で水漏れを検査するのである。

 私は非常に稀な漏水事故を経験した。回天にはキングストン弁(海水タンクに海水を注入するための弁)が操縦席の下にあった。その軸からなぜか漏水したのである。

 キングストン弁を閉じておけば回天全体の浮力に変化はないが潜るときに前部に流れる海水のためにダウンがかかり、なかなか戻らない。どうしてもだめなら応急ブローを使うことにして傾斜計を見ながら潜航したが深度50メーターぐらいでやっと上昇を始めた。別府湾は深かったが瀬戸内海の基地の訓練海面は浅くこのような試みは無理であったろう。

 

【大神回天隊】

 昭和19年の11月になると大型潜水艦の甲板上に回天を4基ないし6基積んだ特別攻撃隊が山口県の大津島基地から出撃するようになった。翌年の春には近くの光基地からも出撃が始まり、基礎訓練を受けながらそのたびに見送りに出る我々にもひしひしと戦局の逼迫が伝わってきた。桟橋に並んで見送る我々に笑みをうかべて応える出撃隊員もいた。

 基礎訓練がようやく終わったころ、急に第4番目の訓練基地要員として同僚約240人とともに別府湾北岸の大神(おおが)基地に行くことになり4月初めに巨大な戦艦が光基地のはるか沖を西進(今思えば戦艦大和の沖縄出撃)するのを見た数日後に大神に着いた。

 着いてみると大神基地にはバラック兵舎が数棟建っているだけであった。われわれは翌日から早速建設工事の応援にとりかかった。近くの川に砂利とりにトラックで往復したり、飛行機の格納庫のような回天の整備場の屋根ふきに上がったりした。整備場のわきには巨大なコンプレッサーで空気を圧縮・液化して酸素を分離抽出する酸素工場や、回天に装備されるきわめてデリケートなジャイロコンパス付の自動操縦装置(電動縦舵機)のための専用調整室などが続々と完成し、回天を整備場から湾内に上げ下ろしするトロッコのレールも敷かれて5月末には回天の試験発射ができるまでになった。これだけの工事をわずか2月足らずの突貫工事で完成させ二千名に及ぶ要員による終夜の魚雷整備体制を整えたこと自体、当時の海軍の回天によせる期待がいかに大きかったかを物語る証左に他ならない。

  今にして思えばこの2ヶ月の訓練開始の遅れが結果的に私をあの戦争に生き残らせることになったといえる。人の運命などは何が幸せになるかわからないものである。

 待ちかねたように6月からは日本海軍独特の月月火水木金金という休日なしの猛訓練が始まった。私の初搭乗は6月1日でそれから1ヵ月半の間にほぼ1日おきに21回搭乗して訓練を終えた。

 発射訓練のあった日は毎晩司令以下の兵科士官と下士官搭乗員が全員夕食後の士官室に集まり当日の訓練に関する研究会が開かれた。初めの頃は回天の基礎的な操縦法や、事故や故障の発生した時の応急処置の適否などが主な議題であったが、襲撃訓練が始まってからは搭乗員がその日の実際の襲撃状況を射法効果図として図上に表し、目標艦の側から見た結果と照合して斜進角度決定の緒元すなわち目標艦の進路・速力および襲撃距離という3つの数値の測定技術の向上法や占位運動の適否が論議された。

 魚雷は砲弾や爆弾と同様にただ1回の使用に耐えるように設計された兵器で回天の訓練に使用された魚雷ももちろんそうであった。そのため訓練の終わるたびにエンジン部分を分解掃除して磨耗した部品を取り替える必要があり整備員の苦労は並大抵ではなかった。それでも整備が間に合わなくて訓練に支障を来たしたことは一度もなかった。

 度重なる空襲で主要な工場の生産力が低下するなかで回天の生産はかなり順調であった。それに対して回天を搭載する大型潜水艦は数少なくなっていたため、陸上の拠点から回天の持つ速くて長い足を活かして敵の機動部隊や本土上陸部隊を邀撃することが回天の主な任務となり、私たち8人は豊後水道の入り口にあたる麦が浦という愛媛県の小さな漁村の近くで待機することになった。

 8月3日の夕刻に待ちに待った輸送艦が到着すると大神基地は戦場のような騒ぎになり、完璧に整備され頭部に爆薬を装着して特眼鏡に注連縄を巻いた出撃回天8基を輸送艦に搭載する作業が整備員総出で深夜過ぎまで続けられた。出撃搭乗員8名は揃って士官浴室で沐浴し第3種軍装に着かえて夕食を済まし出撃祭典を待った。

 出撃祭典は深夜0時に基地本館内に祭られていた回天神社の前で始められ、神戸の湊川神社から贈られた七生報国の鉢巻を締めてもらって別れの杯をくみかわし、桟橋に並ぶ夜目にも白い非理法権天(注)や南無八幡大菩薩の幟の下でみんなに挨拶して輸送艦に乗り移ったときには午前2時をまわっていた。輸送艦はすぐに出航した。(注 非理法権天:非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権力に勝たず、権力は天命に勝たずという楠木正成の幟に記された文字。人事はつまるところ天命のままに動くという意。ヒリホウケンテンと読む。)

 艦内で一休みして甲板に出てみるとすでに夜が明けており、佐賀ノ関の精錬所の高い煙突が右手に見えた。これからカンカン照りの豊後水道を横断しなければならないのであるが、そのころは既にアメリカの艦載機は我が物顔に本土上空を飛び回っており、潜水艦は瀬戸内海にまで入り込んでいると言われていて彼らのいずれにも発見されることなくかつ触雷することもなく対岸に到着できる確率はきわめて小さかった。むろん護衛艦などあろうはずもなく輸送艦自身の対空装備といえば前甲板に口径12.7センチの高角砲が1門と両舷に25ミリ機銃が2丁ずつ計4丁あるだけであり、海鷹のようにロケット弾を装備した艦載機の編隊に発見されればひとたまりもないことは明らかであった。

 大神基地の建設工事のころ、数人で近くの川で砂利取りをしている最中に空襲警報が鳴り、人っ子一人見えなくなったところで北九州爆撃の定期便になっていたB29の編隊を見上げていたところ、対岸の家並みの瓦屋根にカンカンカンと音がしてアレッと思うまもなく目の前の水面にシュッシュッシュッと一列に水しぶきが上がった。それを見てハッと気がついて飛び退いたそのあとにチッチッチッと火花が飛んで砂利が跳ねた。

 状況からみて我々を狙った機銃掃射であることは明らかであり、味方戦闘機の上昇限度を越える高空から地上に静止している人物が見分けられることに驚くと同時に、射撃の正確さに舌を巻いた。快晴の海を航行中の輸送艦ならばその積荷まではっきり見えるはずで、B29の編隊に発見されて一斉に銃撃されれば何が起こるか分からなかった。

 信じられないほどの幸運に恵まれて目的地の麦が浦に着いたのは午前11時半であった。直ちに地元の漁船まで総動員して揚陸作業がはじめられ2時間たらずで8基の回天は海に面した5本の岩のトンネル内に引き込まれた。

 8月12日の昼近く、本部より12時間待機が発令され、すべての仕度をしてトンネルにこもり次の指令を待ったが遂に次の発令はなく翌朝待機命令が解除された。回天で文字どおり“回天の偉業”が成就されると信じていた隊員にとって8月15日の敗戦の報はショックであったがアメリカの報復をおそれた日本海軍は早々に我々を除隊復員させた。

「搭乗員の心理」

 短い海軍生活で、もっとも印象に残っているのは勿論大神の回天隊である。初搭乗の時の記憶はいまだに私の脳裏に残っている。夕食後の士官室の黒板に翌日の搭乗割を記入する先任将校の手元を見ていて自分の名前を確認した私は搭乗する回天の番号と発射時刻をメモして直ちに宿舎に帰り、前から用意しておいた自分の第1回目の訓練計画を注意深く再検討して寝ずに待っていた指導官に見てもらい細かな修正を繰り返して最終的にOKをもらった時には日付が変わっていた。

 それから私は薄暗い常夜灯の点った大浴場に行き、ぬるい風呂に入って下着を着替え、脱いだ下着を洗濯して星明かりで干し場に干した。もしも事故で死んだ場合、汚い下着を着ていたり遺品の中に汚れた下着があったりしては恥ずかしいからである。

  睡眠不足で訓練に臨むと勘も判断力も鈍り、訓練効果が上がらないだけでなく事故や故障が起きた時の応急措置を誤る危険も増すから搭乗前夜には十分に睡眠をとっておくようにと先輩に言われていたので、さあ寝ようと思って床についたものの初搭乗の興奮や事故の心配などでとても眠れたものではなく遂に一睡もできないまま“総員起し”を迎えた。いつものとおり朝礼や体操を済ませて皆と一緒に食卓についたが、今夜ここに座って夕食がとれるだろうかと思うと食事はのどを通らなかった。

 徹夜作業を経験された方はおわかりと思うが、翌朝のあのなんとなく体が浮いたようなそして頭の中に霞がかかったような気分で命がけの訓練に出かけるわけで、自分の手に負えないような故障や事故に出会わないようにと回天神社に深々と頭を下げて特別のご加護をお願いしたうえで発射指揮所に向かったものである。神頼みという言葉は無責任の代名詞のように使われるが、人間は自分の能力の限界を超える困難に直面すると準備を尽くした後は神に祈るしかない。大学入試の合格祈願とは次元の異なる祈りである。

 今思えば一睡もできないまま訓練に赴いた最初の二、三回の搭乗が最も危険であった。少し慣れて前の晩に十分眠れるようになると訓練もだんだん充実してきて技量も上がってくる。それでも21回の搭乗訓練中に生きて帰れたのは僥倖としか言いようがないような不測の大事故に遭遇した。同僚や他の基地の例から考えても訓練中に1回ないし2回の死の危険をすり抜けた搭乗員だけが出撃できたのである。

 出撃搭乗員に選ばれることは回天隊員として最高の名誉でありそのために日夜研鑚を積むわけであるが一旦選ばれれば死は目前に迫っており、覚悟して志願した身ではあってもなんとなく重苦しい気分になってくるのは避けられない。出撃待機中のある日、窓の外を眺めながら郷里の景色や台所に立っている母のうしろ姿などをなんとなく思い出していると軒端でチュンチュン鳴いている雀が目にとまった。無心に戯れている雀を眺めながら、彼らは天から与えられた寿命を自然のままに全うすることができて幸せだなと一瞬うらやましく思った。隊員の作詞した軍歌で“弱冠二十歳の若桜・・・”と歌っていた私はそのとき満18歳と6ヶ月で、“はたち”という歳には届くことのないあこがれがあった。

 人間はいかに使命感に燃えようとも自分の命を犠牲にすることに全く頓着しなくなることはありえない。特にものを考える余裕ができたときに深刻である。しかしながら、出撃祭典で七生報国の鉢巻を締めてもらったときには全身に電撃が走り、一瞬にして自分自身が神になったと感じると同時に使命を全うしようという意欲が湧然と盛り上がって来た。その後の長い人生においてもこのときに勝る感動を味わったことはない。

 多くの特別攻撃隊員が尊い命を自ら進んで国家に捧げた。どの隊員も多数の志願者の中から選ばれた心身ともに健全な若者であったが、人間である以上、出撃前に多少の迷いはあったかも知れない。しかしながら最後は使命感に燃えて気力充実した状態で突入したに違いないと私は自分の経験から思う。そうでなくては突入ができるはずがない。

 特に回天では突入するとすぐ衝撃信管の安全装置を解除し電気信管用の電池を接続する冷静な操作と、目標に命中するまで何回でも再突入する強靭な精神力が要求されていた。

  特別攻撃隊員に限らず、人のために命を捧げることは人間の死に方としてこれ以上崇高なものはないと今でも私は信じている。

「回天神社と高校生」

 平成14年4月、別府湾北岸の大神にあった旧海軍の人間魚雷回天の訓練基地跡に当時の隊員約70名が集まり、回天神社と呼んでいた隊内神社を戦後ずっと預かってもらった近くの住吉神社において元隊員その他の寄金により再建された回天神社の改築記念遷宮祭と犠牲者の合祀を地元の皆さんのご協力を得て盛大に執り行った。

 その夜の懇親会が始まる直前、地元の高校生男女数人が引率の先生と共に会場を訪れ、“終戦直前に別府湾で米艦載機に襲われ擱座した‘海鷹’という航空母艦のことをクラブ活動で調べているうちに、昭和20年7月に人間魚雷回天の訓練の目標艦になったという記録を発見しましたがその時のことをご存知ありませんか”と玄関近くにいた私の友人に聞いたという。友人が“勿論知っています。その時海鷹の下を回天で実際にくぐった4人のうちの2人も来ています。”と答えたところ“是非お目にかかってお話を伺いたい”ということになり、私ともう一人の隊員が会ってわずかな時間であったが話をした。

 回天神社という小さな祠があることは知っていてもその由来を知らず、まして自分達と同じ年ごろの若者が国家に命を捧げるための訓練をしていたという事など思いもよらなかった高校生達は、その後地元の老人たちに聞いたり残された資料を調べたりして目の前の海であった事を記録に残そうとした。高校生たちの作った記録の中で彼(女)達は最初に“国を守るとはどういうことか”という政治の根源的な問題を問いかけている。

 このような若い人達が現在の日本にいること自体が私にとっては信じられないほど嬉しいことであった。また半世紀以上も昔のわずか数ヶ月の付き合いを忘れず、回天神社改築の企画当初から全面的に協力して下さった地元の皆さんや、新社殿を総ヒノキ作りで釘一本使わずに精魂込めて組み上げて下さった棟梁の心情に心から感謝している。

 “日本という国は侵略戦争を起し大勢の若者を戦場に送り特攻攻撃を命じて多数の戦死者を出し、残虐行為で世界中に多大な迷惑をかけた末にその報復で都市のほとんどを焼け野が原にされ多くの国民が塗炭の苦しみを味わった暗い過去をもつ国である、などと教えられた私たちはそれをそのまま生徒に教えてきました。ところが皆さんの話を聞いて以来このような人たちが命を捧げてまで守ろうとした日本という国はそんな悪いばかりの国ではなかったのではないかと気付き、生徒たちと一緒に事実はどうであったのかということを本気で考えるようになりました。”

 これは高校生たちとの数年にわたる付き合いのなかで担任の先生があるとき述懐してくれた言葉である。

秋更けて 夜はなにを する人ぞ

11月 15th, 2012

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

昨日の帰り道、しんしんと暗い夜の空に

大きなオリオン座がでているのを見ました。

秋が極まって、冬に移りつつあるのかな、と思いました。

 

最近、『今できることをやればいい』という本を何度も読んでいます。

お書きになったのは、酒井雄哉(ゆうさい)大阿舎利(あじゃり)です。

比叡山のお坊様で、山や京都市内を千日かけて歩く「千日回峰(かいほう)行」を

2回も行なった方です。

この「千日回峰行」、毎日のお勤めが終わった深夜に約40キロを歩く行で、

終えるまでに約7年かかるそうです。

歩く総距離は約4万キロ。これは地球一回り分だそうです。

しかも、700日目には不眠不休で横になることもせず、一切を口にしないで

9日間お経を唱え続ける、人間の限界を超える難関が待ち受けています。

もしもこの行を途中でやめてしまったときには、自害しなければならないという

厳しい決まりもあるそうです。

 

想像するだけでも常人には難しいすごい修行だなと思うのですが、

比叡山千年の歴史のなかでこの行を2回も成功させたのは、

酒井大阿舎利含めて3人だけなんだそうです。

約330年に一人と考えると、そのすごさがよりわかりますね。

 

『今できることをやればいい』は、タイトルにひかれて本屋さんで何気なく手に

とったのですが、語り口調で書かれていてとても読みやすく、一気に読んでしまいました。

何よりも、奥付の著者略歴で、酒井大阿舎利が元予科練生だということを知って

とても驚くと同時に、親しみを感じました。

そんなこと全然知らずに買ったので、勝手にご縁を感じたりもしました。

 

大阿舎利が予科練に入隊したのは昭和19(1944)年。

通っていた学校を落第しそうになったので、先生に進められて入隊したそうです。

鹿児島県にあった鹿屋海軍航空隊で終戦を迎え、戦後は職を転々とされます。

ラーメン屋さんをやったときには火事になり、新婚の奥様を自死で亡くされるなど、

順調とはいかないなか、40歳でお坊さんになったそうです。

 

とても柔和な笑顔の写真が表紙の本なので、中で語られるジェットコースターのような

前半生とのギャップに驚きますが、

一度実際にお会いしてみたいなという気持ちを強く持ちました。

ローマ法王にも謁見なさっているし、そんなに簡単にお会いできる方ではないのですが、

説法などの機会があったら、参加してみたいです。

みなさんもご興味をもたれたら、ぜひお手にとって本を読んでみてくださいね。

 

酒井雄哉大阿舎利のホームページ

http://www.sakai-yusai.net/

 

  

さて、先日から「ナイトミュージアム!」の申込み受付を開始しました。

2回のツアーで40名様定員のところ、現時点で半数以上のお申し込みを

いただいております。

先着順ではないので、お気になった方は22日の締め切りまでに

ぜひお申し込みください!

また、すでにお申し込みいただいた方の中で、必要事項の記載もれをお見受けします。

お申し込みの際は、今一度ご確認くださいますようお願いいたします。

 

ナイトミュージアム! こちらをご覧ください

https://www.yokaren-heiwa.jp/kantan/?detail=true&id=207

 

 

また、11月24日(土)には、よみきかせ「おはなしおさんぽの会&

昔のあそびをやってみよう!の会」を開催します。

今回の遊びは、予科練平和記念館とお隣の公園にかくされた7つの

スタンプを探す「秋のスタンプラリー」です。

 

スタンプもただのスタンプではありません。

「秋」のスタンプだけあって、秋らしい工夫をしています。

どんなふうになってるの?は参加してのお楽しみ。

未就学児のお子様もご参加いただけます。

秋の一日、親子で楽しめる無料のイベントですので、お気軽に遊びにいらしてくださいね。

 

よみきかせ「おはなしおさんぽの会&昔のあそびをやってみよう!の会」

こちらをごらんください。

https://www.yokaren-heiwa.jp/kantan/index.php?detail=true&id=206

 

 

館の桜が、本当にすてきな色に染まりました。

 

 

昨日、この木の下で、かわいいわんちゃんを撮影しているご家族がいらっしゃいました。

わんちゃんのいたところは、落ち葉でハートの形がつくられていて、

きっとすてきな写真が撮れただろうな、と想像しています。

 

 

行楽シーズンの追い込みに入ったのか、今日は大勢のお客様でにぎわい、

あわただしかった予科練平和記念館でした。

近くの石岡市立城南中学校から中学生が職業体験に来てくれたので、

いろいろとお手伝いいただき、とても助かりました。

 

 

彼女は歴史に興味があるそうで、とても熱心にお仕事をしてくれました。

今中学2年生ということは14歳か15歳。

10年後ぐらいに同じ学会で偶然お会いしたりするかもしれませんね。

そう考えると、時が経つのも楽しみに思えてきます。

 

 

 

 

特別展「回天」エピローグ①

11月 11th, 2012

 平成24年度予科練平和記念館特別展「回天」は10/28(日)をもって終了しました。会期中には多くの方にご来館いただき、まことにありがとうございました。

 過ぎる11月初めには、山口県周南市回天記念館へお借りした資料を無事に返還することができました。

 終戦間近の予科練生は厳しい運命に翻弄された感がありますが、回天記念館のある山口県大津島も予科練生と直接関係する場所の1つです。今年に入り展覧会業務のため春夏秋と私は3度訪問する機会に恵まれましたが、その風景はしっかりと脳裏に刻まれたように思います。回天搭乗員が特攻訓練を行った地であり、美しく穏やかな瀬戸内の風景が広がるところであり、様々に考えさせられる大津島でした。

 皆さんにも、是非、のんびりと船に乗って大津島を訪れて欲しいと思います。

 

 展覧会終了後、予科練平和記念館からお隣の自衛隊武器学校に通じる広場に、展覧会の主役を無事に務め終えた回天模型が展示されました。

 回天の実物大模型は、私の思い違いでなければ、当館の他には靖国神社遊就館、広島県呉市大和ミュージアム、山口県周南市回天記念館および徳山港、同じく山口県平生町阿多田交流館にしかありません。回天一型を訓練用に白/グレーに塗り分けた実物大模型は今のところ全国でこの予科練平和記念館にしかないと思います。

 当時の様子に思いを馳せるための貴重な資料です。1人でも多くの方に見ていただきたいと考えていますので、どうぞご来場下さい。

 

 今回のブログでは、展覧会会期中2度にわたり講演していただいた元回天搭乗員・塩月昭義様(元甲飛13期-奈良空)の講演内容レジュメをご紹介いたします。塩月様は、光基地-大神基地を歴任され、最後は基地回天隊・麦ケ浦基地(愛媛県)で終戦をお迎えになりました。予科練生の例に洩れず、私などが言うのもおこがましいことですが、塩月様も大変優秀な人材でいらっしゃることが84歳をお迎えになった今も感じられる方です。

 予科練生として飛行機搭乗員を志し、後に回天搭乗員として訓練をお受けになり、戦後様々な思いを抱かれて生き抜いてこられた塩月様のお言葉を、大いに想像力を働かせながら噛み締めていただきたいと思います。

 字数の関係もあり、これから2回に分けてご紹介します。

 

「回天」

 大東亜戦争の開戦劈頭、真珠湾とマレー沖における日本の海軍航空隊の活躍は世界を震撼させた。日本人の多くは海軍航空隊でこの戦争に勝てると思った。ところがアメリカ海軍は半年後には主力艦の対空砲火を数倍に強化して、日本雷撃機の最低空・最低速での接近中にその大半を撃墜するようになったため日本の海軍航空隊による魚雷攻撃はわずか半年で通用しなくなった。

 消耗を重ねる長期戦は総合力に劣る側が不利なのは自明の理である。開戦半年後にミッドウェーで敗れ、続く半年のラバウルを基地とするニューギニアやガダルカナルの航空戦においてミッドウェーの何倍もの搭乗員や飛行機を失う戦いを目の当たりにした海軍将兵の多くは開戦一年後には飛行機ではアメリカに勝てないことを確信するようになった。

 勝てない戦いを目撃した若い士官達の中から起死回生の戦術として提案されたのが日本海軍の虎の子の酸素魚雷と潜水艦を活用しようという人間魚雷 “回天”(注)であった。

(注) 航続距離を増すため酸素魚雷の酸素ボンベと燃料を2組装備し、特眼鏡という小型潜望鏡や操縦装置をつけた直径1メートル、全長14.75メートル、最大速力30ノットの一人乗り大威力魚雷。10ノットで約80キロメートルの航続距離を有し、大型潜水艦のデッキに最大6基搭載され潜水艦長の指示により自力で発進し敵艦船を襲撃した。主力艦船を失った海軍は回天の生産に全力を上げ、終戦までの約一年間に400基以上を生産し80基が潜水艦で出撃し、さらに約80基が日向灘沿岸と土佐湾沿岸および八丈島のトンネルの中に配置され、米軍上陸部隊の来襲に備えていた。私もその中の一人であった。

 味方の損害を最小にし相手への打撃を最大にするのが戦術の要諦であるならば後に特攻と呼ばれるようになったこの攻撃法は一見粗暴に見えるが戦術としてはこれに優るものはない。ただこれには自分の生命を捧げることを厭わない志願者があることが条件である。総合的な国力の差を人間の生命で補おうという戦略で、生還の可能性のない兵器や作戦を採用しないという伝統を捨て切れなかった軍令部も昭和19年6月のマリアナ沖海戦に敗れて連合艦隊の主力を失った後に残された戦局挽回の方策はこれしかなく遂に承認された。

 長年にわたる猛訓練を積んだ優秀な飛行機搭乗員の活躍により大勝した真珠湾やマレー沖の戦闘でも、撃沈した敵主力艦一隻あたりの搭乗員の喪失は相手側に対空砲火しかなかったにもかかわらず十名を越えていた。それに対し回天では基礎訓練を除けば2ヶ月足らずの実技訓練で出撃可能で、命中すれば頭部に装着した1トン半の新型高性能爆薬で大型戦艦でも一人で確実に撃沈することができた。魚雷や特攻機と異なり一度襲撃に失敗しても洋上ならば燃料の続く限り何回でもやり直しができたため、250キロ爆弾しか積めず防御放火にも弱い特攻機に代わる最後の切札として一部の海軍首脳の期待を集めていた。

 二度の世界大戦を通じて通商破壊戦の花形であった潜水艦はその隠密性が唯一の防衛手段で、魚雷攻撃の前に敵の駆逐艦に発見されると耐圧の限界まで潜って執拗な爆雷攻撃をかわしきらない限り、破損沈没するか満身創痍で浮上して最後の砲戦を挑むかしかなく、多くの潜水艦が餌食にされた。それに対し回天を搭載した潜水艦ではそれで頭上の天敵を文字通り粉砕することができたため回天の出現以来、洋上における遭遇戦では敵の爆雷攻撃が及び腰になったことを歴戦の潜水艦長は実感したという。回天は潜水艦にとって将に鬼に金棒で搭載魚雷と合わせれば攻撃力は倍加された。

 このように回天は性能上も人命経済上も要員養成上も極めて優れたその当時の日本の究極兵器で、間に合わせの兵器とはいえ国家存亡の危機に自らの生命を捧げようとする若者にとってまさに理想の棺桶であった。惜しむらくはその出現が遅すぎ“回天を既墜に返す”ための時間がなかったことである。

 終戦直後、マニラに飛んだ日本の軍使に、マッカーサー司令部のサザーランド参謀長が真っ先に尋ねたことは回天を搭載した潜水艦が太平洋上に何隻残っているかということであったという。4月7日の戦艦大和の沈没以来、洋上で戦う日本の艦艇はそれしかなかったからである。約10隻(実際は8隻)との返事に“それは大変だ。一刻も早く戦闘行為を停止するよう厳重な指令を出してもらわねば”と身を震わしたといわれる。第七艦隊司令長官オーデンドルフ中将は “もし戦争がさらに続いていたならばこのものすごい兵器は重大な結果をもたらしていたであろう”と回顧録で述べている。広島と長崎向けの原爆をテニアン島に届けた後の重巡インディアナポリスを撃沈したのは、魚雷で十分と判断したイ58潜水艦の橋本艦長の発射した6本のうちの3本であったが、緊急信号も発しないで沈没した状況からみて回天に違いないとアメリカ海軍は思っていたようである。

(人間魚雷の具申)

 黒木博司という機関学校卒の海軍大尉は飛行機による攻撃が犠牲の方が多くて効果が少なくなったのを知ると、この上は一人一艦の体当たりで敵を沈めていく以外に勝つ方法はないとの結論に達し、ガダルカナル敗戦後間もない昭和18年3月、連合艦隊司令長官に体当たり兵器の採用を血書嘆願し人間魚雷の計画を要路に次のように説明して廻った。“このままでは日本は滅亡のほかない。いま何か決定的な手を打たなければ、悔いを千載に残すことになる。われわれはいつでも命を捧げる覚悟はしている。ささやかな命ではあるが捧げて甲斐あるある方法で捧げたい。そのためにはこの兵器を考えざるを得ない。”

 その後の長い紆余曲折の中で議論を呼んだ脱出装置をつけるという許可条件の技術的実現が困難を極めたとき黒木大尉たちは“脱出装置は不要である。敵前で脱出を望む搭乗員などいない。正確に敵艦に中ることしか考える者はいない。”といって反対した。最初の具申から1年半が経過した昭和19年8月1日、搭乗員から起った脱出装置無用の主張をいれて人間魚雷はようやく兵器として正式に採用され黒木大尉の提案で回天と命名された。この軍令部の1年半の逡巡とその間の潜水艦用法の誤りが日本の敗北を決定的にした。

  黒木大尉は試作品による訓練を始めた2日目の19年9月6日に海底突入事故で回天隊最初の殉職者となった。切迫した戦況のもとで設計・製造された回天は試用期間もまったく取れず工廠から運ばれてくるのを待ちかねて訓練に使ったため故障も事故も多く、操縦法も手探りから始めるしかなかったため訓練中の犠牲は覚悟の上であった。回天隊の戦死者80名に対して訓練中の殉職者16名という数字がその過酷さを物語っている。

(回天の訓練)

 魚雷は発射前に設定された進路と深度にしたがって自動操縦で走る。回天はそれらの値と速度を搭乗員が随時設定し変更することができるが自動操縦であることに変わりはなく自動車や飛行機とちがって初めてでも操縦できる。これが僅か2ヶ月の実技訓練で出撃搭乗員を養成出来る最大の理由であった。ただ水中では盲目航行で、速度と時間の積で走行距離を算出しなければならない。この計算を間違えると潜ったまま島に衝突したりする。

 訓練の最初は“隠密潜入露頂法・航法ならびにツリム作成法”といい、海図に記入した航海計画の通りに回天を走らせながら予定地点で露頂(浮上)して特眼鏡で自分の位置を確認し、出来るだけ静かに潜るといういわば回天の基本的な操縦術と浮力調整法の訓練で、操縦席の前後に3個ずつ設けられた海水タンクに燃料消費量に応じて均等に注水するのはかなりやっかいな操作であったが、それを怠ると浮力が増して潜りにくくなりスクリューの上げる水しぶきでたちまち敵に発見されるし過度に負浮量にすると露頂時の走行が不安定になるので、浮力を僅かに負に維持しておくのは隠密潜入露頂に必須の技術であった。

 自動制御というのは常にディジタル制御である。回天の縦舵機は電動ジャイロに連動した取舵と面舵の2値制御で厳密に言うと設定された進路を中心に正弦曲線を描く走行であるが動作そのものは安定している。それに対し横舵機は深度制御と姿勢制御の4値制御となり技術的にははるかに複雑である。そのためか舵が効きすぎて水面に飛び出したり浅い海で海底に衝突したりするイルカ運動を起こし易い。設定深度ゼロ(上げ舵一杯)で増速すれば尾部が沈むので水しぶきがほとんどなく潜れ、その後搭乗員が傾斜計と深度計を見ながら深度や速度を調節すればイルカ運動を防げるが慣れないうちは難しい操作である。

 そのような基礎的な操縦法の訓練を数回で終えるとあとはもっぱら航行艦襲撃の訓練であった。ところが航行艦襲撃は予想をはるかに超える難しさであった。初めての襲撃訓練のときには襲撃が終わって露頂したとき真後ろにいるはずの目標艦がとんでもない方向のとんでもない遠方にいるのを見てもすぐには自分の失敗と理解できなかった。ようやく気をとりなおして試みた次の襲撃も同じような失敗に終わった。目標艦の見張り員も“突入地点はわかったがその後どこに行ったか全くわからなかった”と云う程であった。

 潜水艦が航行中の敵の艦船を魚雷攻撃するときの最適位置は目標の進路の斜め前およそ60度、距離1500メートル以内(魚雷が目標の舷側にほぼ直角に中る関係位置)である。潜水艦長は目標を発見すると襲撃の前にまずこの位置を占めようとする。これを占位運動という。水中速力の遅い潜水艦が原則として待ち伏せしかできず丹念にジグザグ運動をする目標への占位運動が極めて困難であるのに比べ、回天では16ノットの戦速で追い討ちも含めてはるかに広い範囲に機敏な占位運動ができる。

 襲撃に好適の位置に達すると目標までの距離とその進路および速力を判定し斜進角度表を引いて回天の進路を定め電動縦舵機に指示して全速で突入するわけであるが単眼の特眼鏡で始めて見る敵艦船の進路や速力を判定するにはかなりの熟練を要する。狭くて薄暗い操縦席で短い時間に多くの数表の中から正確な斜進角度を求めるのは易しいことではない。

 驚いたことに日本海軍は襲撃訓練用にシミュレータ(机上襲撃演習機)を作っていた。今ならコンピュータで楽にできるであろうが当時は極めて複雑な歯車の組み合わせであった。

 私の場合、搭乗訓練をほぼ1日おきに合計21回実施して1ヶ月半で訓練を終えたがその間、海底に衝突したり訓練海面に紛れ込んだ民間の機帆船に衝突したりしながら際どく生き残ることができた。僅かに残っていた現役空母‘海鷹’(17,800トン)を卒業訓錬の目標艦にしたとき、その大きさに驚いたが同時にこれなら中ると直感した。

 特眼鏡で見上げた濃紺の巨大な海鷹の勇姿は今も私のまぶたに焼きついている。制海権も制空権もなくなった南方海域への7回の輸送船団護送作戦に従事し奇跡的に生き残っていた海鷹を目標に中一日おいて2回の襲撃訓練ができたことは望外の喜びであったが残念なことに同艦はその数日後に別府湾口で触雷し別府湾奥の浅瀬に座州したのち、アメリカ艦載機編隊とのロケット弾戦に敗れて豪華客船アルゼンチナ丸以来の短い生涯を終えた。

(護衛空母)

 日本海軍は平時に運用される豪華客船を戦時に海軍に徴用することを条件に建造費の半額を負担した。その中で護衛空母に改装されたのは、春日丸―大鷹、八幡丸―雲鷹、新田丸―沖鷹、アルゼンチナ丸―海鷹、(各17,800トン)の4隻である。

(航行艦襲撃と軍令部)

 回天は警戒厳重な港湾進入の困難性を予想し洋上における航行艦襲撃を目的として開発されたが軍令部は航行艦襲撃に対する搭乗員の技掚を信用せずあくまで停泊艦襲撃に固執した。ところが護衛空母の対潜哨戒機が活動するようになった20年2月の硫黄島海域や同年4月の沖縄海域においては敵艦船に対して魚雷戦はおろか回天戦の可能な距離まで潜水艦が接近することすら困難になった。泊地や密集する艦船に対する無理な接近により敵の哨戒機や護衛駆逐艦に発見され戦う前に回天もろとも撃沈された潜水艦は回天戦に参加した合計16隻中8隻に達し、戦死した回天搭乗員80名中の35名は潜水艦から発進するいとまもなく親船と運命を共にした。残りの45名の搭乗員も湾口や侠水道の通過中に防潜網に捕捉されたり敵の駆潜艇に攻撃されたりして、大敵を目前にしながら雄図空しく無念の自爆を遂げた例が少なくなかったことがアメリカ海軍の記録でも明らかである。

 回天による航行艦襲撃は確かに難しかったが、エンジン停止もスクリューの逆回転も出来ない回天を操って不完全な海図しか頼るもののない状況で始めてしかも特眼鏡で見る湾口や侠水道を防潜網や哨戒艇をかわしながら通過する困難さに比べれば、燃料の続く限り何回でもやり直しができる広い洋上での襲撃の方が搭乗員にとって気分的にはるかに楽であった。しかも陸地を遠くはなれた洋上では電波探知と見張による厳重な哨戒を怠らなければ潜水艦の方が先に航行中の敵の艦船を発見できることが多かったことを考えると、危険で困難な泊地襲撃よりも洋上襲撃の方が成功の確率ははるかに高かったはずである。

 回天の戦果が期待通りに上がらないことと航行艦襲撃に対する回天隊の熱望に応えて軍令部は沖縄戦の最中にようやく洋上における回天の航行艦襲撃を認め、沖縄海域の潜水艦を太平洋に回すことを認めたが、とき既に遅く大型潜水艦も残り少なく我々搭乗員が夢に描いた敵大型艦船との洋上における壮絶な一騎打ちの機会はほとんどなくなっていた。

 生き残った我々が声を大にして訴えたいのは、第一線の将兵が厳しく警告したにもかかわらず戦局の逼迫を正しく把握できなかった軍令部が、国を救えると信じて勇躍出撃した多くの尽忠至誠の若者をあたら南瞑の海に憤死させわが国を破滅に導いた重大な責任である。

 マリアナ沖海戦に敗れてサイパン・テニアン両島を占領されたとき、軍首脳も政治家も敗戦を覚悟したという。それから更に無駄な戦いを1年以上も続け犠牲者の8割をその間に発生せしめた当時の日本の戦争指導部の資質とは一体いかなるものであっただろうか。

文化の日のひとりごと

11月 3rd, 2012

 

みなさんこんにちは。

来月開館するルーブル美術館分館の内部が公開されて

大興奮の学芸員Wです。

フランス・ランスにできたこの分館は、建築界のアカデミー賞といわれる

プリツカー賞を受賞した建築家 妹島和世さんと西沢立衛さんのユニット

「SANAA(サナー)」が設計したものです。

ガラス張りの明るくてかろやかな空間の写真が公開されましたが、

ここがこれからどんなふうになっていくのか、楽しみに思っています。

 

美術の本家で日本人の建築家が歴史あるルーブルの分館を

担当するって、本当にすごいことですよね。

 

妹島さんが茨城県日立市のご出身であることも、私的に勝手に嬉しく

誇らしく思っています。

時間ができたら、日立駅はじめ県内にある妹島さんの建築を

巡ってみたいなと思っています。

 

さて、今日は11月3日。文化の日です。

秋がだんだんと深まってきましたね。

ここ茨城は11月上旬から中旬にかけて紅葉がピークです。

予科練平和記念館でも紅葉が進んでいます。

館前の桜の木の葉っぱが、とても素敵な秋色に染まってきました。

 

 

 

このもみじの木から種が飛んでいるらしく、毎年付近の芝生の中に

小さなもみじがでてきます。

芝と一緒に刈られてしまうのがかわいそうなので、今年出ていたもみじBabyたちは

展示解説員Oさんに助け出されて、Oさん宅で一時預かりとなっています。

Oさんは植物を育てるのがとても上手で、もみじたちも少し大きくなってきたそうですので、

時期をみて親もみじの近くに移植しようと計画しています。

何十年か後に、ここがもみじの名所になっていたらすてきですね、と二人で妄想しています。

 

 

さて、先日夏季特別展が終わり、展示撤収のための臨時休館日を利用して、

職員研修を行いました。

 

予科練平和記念館と同じ乃村工藝社さんが設計なさった

戦傷病者の記念館「しょうけい館」と、「遊就館」の2館をまわって

館内案内や施設、サービスなどについて勉強しました。

 

 

普段はお客様をお迎えしてご案内する立場の私共ですが、

お客様になってみて案内をしていただくと、細かいところにいろいろと気付きます。

 

展示解説員さんたちもそれぞれ思うところがたくさんあったようです。

 

私も一日添乗員さんの真似事をさせていただき、その大変さと気遣いを

身をもって感じました。

やはり何事も実際に自分でやってみないとわからない事がありますね。

今回の研修はとても勉強になりました。

 

それから、私Wは恥ずかしながら「しょうけい館」さんへ今回はじめて

うかがいました。

展示の見せ方もよく考えられていて素晴らしいし、悲惨さだけを強調するのではなく

戦傷病者の方々の辛さ、悲惨さを十分に受け止めた上で、

かつて起こった事実を静かに語りかけるような作りにとても共感しました。

学芸課長さんにいろいろとお話をうかがいましたが、おもしろかったのが、

野戦病院を再現したジオラマの話です。

 

手掘りの洞窟の中に運び込まれる負傷兵や麻酔もなく手術される兵士、

手当てをされてぼうぜんと座り込む兵士などの等身大の人形がいるのですが、

リアルさを出すために痩せ型のボクサーをモデルにして動きを再現してもらい、

筋肉の動きなどを確認しながら作ったそうです。

実際に南方戦線で軍医をなさった方に監修してもらって、

洞窟の壁面も、実際に野戦病院だったところから型を採取して再現したそうです。

 

知らなければ「すごくリアルだな」という感想を持つところですが、

つくられた背景をうかがうことで、戦傷病者の事実をどうやったら

伝えられるか、という製作者の思索やアイデアに思いを馳せることができました。

 

しょうけい館さんは、限られたスペースの中で空間をとてもうまく使って

いらっしゃるので、展示手法的に勉強になりましたが、それ以上に、

戦傷病者の方々のデータベースが充実していること、毎年体験者の証言映像を収録し、

DVDにして公開、貸出をしていること、戦傷病者に関係する図書を体系的に

収集していらっしゃることなど、予科練平和記念館で(というか私の中で)

課題となっている部分がきちんと整理されていることに感銘をうけました。

 

博物館は、資料を見せる場というだけではなく、未来へ記憶を残すデータセンターとしての

役割もあります。

戦争を体験された世代の世代交代が進んでいるなかで、

今残すべき、集めるべき資料はたくさんあるということを改めて思いました。

 

今日の文化の日、みなさんもぜひ博物館におでかけになってみてはいかがでしょうか。

作り手がどのように資料を見せようとしているか、という視点で展示をご覧いただくと、

また違った楽しみ方ができるかもしれませんね。

 

しょうけい館

http://www.shokeikan.go.jp/