特別展「回天」へのいざない⑤

8月 30th, 2012

 「回天」の発案者、黒木博司大尉は大津島回天基地での訓練開始2日目に殉職します。

 それは、昭和19年(1944)9月6日でした。その日は午後に入ると風がたいへん強くなり、ふだんは穏やかな瀬戸内の海に白波が立つばかりでなくうねりさえ大きくなったと記録されています。

 海の状態を危険と判断した指揮官によって訓練中止が決められたものの、黒木大尉は再考を強く求めたようです。盟友とも言える仁科中尉から「今日はやめた方がいいでしょう」という進言があったそうですが「天候が悪いからといって敵は待ってくれない」と訓練続行を黒木大尉は望み、ついには17時40分に樋口大尉が操縦する回天に同乗し訓練に出ました。

 訓練時には見張りをする船が付きましたが、この時の訓練に付いた2隻は遭難した回天を発見することが出来なかったそうです。その後、捜索隊が編成されましたが、黒木・樋口両大尉が乗った回天が発見されたのは翌朝9時のことだったと伝えられます。前日の様子が嘘のような、いつもの穏やかな海に戻っていたそうです。

 訓練コースをやや北に外れた水深約15メートルの海底で、先端から約3分の1ほど泥をかぶり海底に突き刺さった状態で回天は発見されました。引き上げられハッチが開かれたとき、取り乱した様子もなく2人は息を引き取っていたということです。

 両大尉は、酸素が尽き絶命する間際まで手帳に事故原因などを書き記していました。

 今回の特別展でも黒木大尉の手帳のレプリカを展示していますが、これからその内容を抜粋してご紹介します。

【黒木大尉】

「十九年九月六日 回天第一号海底突入事故報告」

・当日一八時一二分(中略)海底に突入せり。

・調深五メートルに対して実深二メートル、前後傾斜は二~三度、時には四~五度となりしことあり。

→実深2メートルの位置にいたとき深度計を5メートルに設定したため回天が急に先頭を下に向ける形で海底に突っ込んでしまったということ。

・五分間隔に主空気一分間放気(中略)気泡を大ならしむ。

→事故等があったとき回天から空気を放出して泡を出し、位置を知らせること。この日は大時化だったため捜索隊が気泡を発見できなかった。

・一九時四〇頃「スクリュー」音二を聞く。前者は直上にて停止せるものの如し。但し爾後遂に何等の影響なし。

・(中略)最初の実験者として多少の成果を得つつも、充分に後継者に伝ふることを得ずして殉職するは、不忠申訳なく、慚愧に耐へざる次第に候。

・仁科中尉に 万事小官の後事に関し、武人として恥なき様頼み候。

・(中略)父上、母上、兄上、妹御達者に。

・呼吸苦しく思考やや不明瞭、手足ややしびれたり。〇四(時)〇〇(分)死を決す。心身爽快なり。心より樋口大尉と万歳を三唱す。

・〇六〇〇、猶二人生存す。相約し行を共にす。万歳。

【樋口大尉】

指揮官に報告。予定の如く航走、一八・一三潜入時、突如傾斜DOWN二〇度となり、海底に沈座す。その状況、推定原因、処置等は、同乗指揮官黒木大尉の記せる通りなり。事故のため訓練に支障を来し、まことに申訳なき次第なり。後輩諸君に、犠牲を踏み越えて突進せよ。

七日〇四〇五。呼吸困難なり。訓練中事故を起こしたるは、戦場に散るべき我々の最も遺憾とするところなり。しかれども犠牲を乗り越えてこそ、発展あり、進歩あり。我々の失敗せし原因を探求し、帝国を護るこの種兵器の発展の基を得んことを。周密なる計画、大胆なる実施。

〇四三五、呼吸著く困難なり。

〇四四〇、生即死。

〇四四五、国歌斉唱す。

〇六〇〇、猶二人生く。行を共にせん。

〇六一〇、万歳(壁書)。

  回天の操縦はとても難しかったと聞いています。回天の生みの親とも言える黒木大尉が訓練開始早々に殉職したことはその一端をうかがわせるでしょう。

 黒木大尉、樋口大尉の無念さはその遺書と言える手帳の内容からもうかがえます。

 この殉職を契機に、仁科中尉を中心として、むしろ結束して訓練に励んだと伝えられています。

終戦記念日

8月 15th, 2012

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

今日は67回目の終戦記念日です。

いろいろな方がそれぞれの思いで過していらっしゃるとおもいます。

穏やかな一日になりますように、お祈りしています。

 

予科練平和記念館は本日無料でご覧いただけます。

展示をご覧になって、普段は意識することが少ない“戦争”というものに、

改めて思いを馳せてみませんか。

 

 

 

近くのハス田には、ハスの花がきれいに咲いています。

 

 

グリーンとピンクと白の色合いがなんともやさしく涼しげで、すてきです。

 

 

さて、予科練平和記念館に学芸員実習の大学生がきてくれています。

学芸員の資格を取るために必要な実習で、実際に学芸員の仕事を手伝って

実地的なノウハウを学ぶものです。

 

ほこりをかぶった状態で寄贈された軸をクリーニングしています。

とても一生懸命話を聞いてくださって、お仕事も丁寧なので、

大変助かっています。

ブログを更新するのもお仕事の一つということで、今日は彼女に参加していただきました。

 

 

はじめまして。学芸員実習のために、一週間予科練平和記念館にお世話になっています。

右も左も分からないありさまですが、学芸員の方々や職員の方々には、非常に多くのことを教えていただきました。毎日が初めて知ること、体験することの連続で、大変勉強になっています。

実習期間もあと少しとなりましたが、最後まで真剣に取り組み、一つでも多くのことを学んで帰りたいと思います。

 

 

実習は残念ながら今日までとなってしまい、寂しい限りです。

浅学の私Wがお伝えできることはわずかですが、少しでも

学芸員という仕事の責任や奥深さを感じていただけたら嬉しいなと思っております。

 

実は彼女に教えてもらったことで、とても印象に残ったことがあります。

彼女の大学は東京九段の靖国神社の近くにあるそうですが、毎年この時期になると、

神社で年配の方がじっとうつむいて座っているのをよく見かけるそうです。

 

その方はどのような思いでそこにいらっしゃるのか。

私のようなものには、その方の深い思いを推し量る術はありません。

けれども、そういう方がいらっしゃることを、心のどこかにきちんと留めておかねばならないと、

この話を聞いたときに思いました。

 

 

最近、昭和な装丁に惹かれて買った松下幸之助著『道をひらく』という本に

こんな言葉を見つけました。

 

ながい一生のうちに 人はいくたびか

自分の将来を左右する岐路に

血のにじむ思いで 立たねばならない

ながい歴史のうちに 国もまた いくたびか

みずからの行くすえを鋭く見きわめるべき

意義深い時期に みまわれるー

 

あなたはいま 何をもとめて日々努力し

日本はいま 何をめざして進んでいるのだろうか

ともに育ち ともに暮らしているこの国を愛し

日本人自身のすぐれた素質を大切に思うならば

政治家も経営者も 勤労者も家庭の主婦も

おたがい 他にのみ依存する安易な心をすてて

みずからが果たすべき責任にきびしく取り組もう

この国日本の 百年の計をあやまらないために

 

 

松下幸之助さんは、みなさんがよくご存知のパナソニックグループ

(旧松下電器産業)の創始者です。

私が生まれる前に書かれた本ですが、まるで今の日本の状況を

見ているかのような言葉だと思い、驚きました。

 

先の大戦から67年。

東日本大地震から2回目のお盆です。

 

この時期になるといろいろ考えることがあるのは、天国から懐かしい方々が帰っていらして、

何かささやいてくださっているからかもしれませんね。

みなさんは、今日をどのようにお過ごしになりますか?

 

特別展「回天」へのいざない④

8月 9th, 2012

 今回は、「回天」が誕生したあらすじをお話したいと思います。

 日本海軍は、太平洋戦争においても艦隊決戦、つまり軍艦がある距離を置いて船団を形成し、敵艦を攻撃・沈没させようとする形の戦いが起きると予想していたようです。

 そのため、射程約40キロメートルを誇る大砲9門を備えた大和、武蔵などの巨大戦艦も建造しました。

 同時に、日本海軍は酸素魚雷(九三式魚雷)を開発していました。これは水中を高速で進み航続距離が長く、しかも燃料として酸素を用いるために排気ガスが水蒸気となり海水に吸収されて無航跡となる優れた魚雷でした。

 しかし、太平洋戦争では航空機が主力兵器となったため、日本海軍が想定していた艦隊決戦は起きませんでした。つまり、大和、武蔵がいくら大砲を放ってもその遙か遠くから航空機が飛来し、軍艦を攻撃する時代に変わっていたのでした。そのため大和、武蔵が華やかに活躍できなかったのと同様、酸素魚雷も武器庫に多くが眠ったままだったのです。

 一方、真珠湾攻撃が行われた約半年後、ミッドウェー海戦で日本海軍は敗れ戦局が悪化し始めます。その後、山本五十六大将が戦死した昭和18年には、アッツ島、ガダルカナル島などの拠点から日本軍は撤退を余儀なくされ、翌昭和19年2月には南太平洋の重要基地であったトラック島が攻撃されて、基地に集められていた航空機がほぼ壊滅するという事態に陥りました。

 戦うための航空機が数少なくなった日本海軍は、航空機以外の武器に目を向けるほかなかったと言えるでしょう。

 昭和18年当時、呉海軍工廠魚雷実験部(P基地)で特殊潜行艇(甲標的)の訓練・改良、及び新兵器の開発に努めていた黒木博司大尉、仁科関夫中尉(階級は戦没時のもの)は、こうした状況下で酸素魚雷に人間が乗り込む「人間魚雷」の開発に考えが進んでいったと思われます。

 

 回天には脱出装置が付けられていません。これは隊員が生還する可能性をもたない作戦や兵器は認めない伝統をもつ日本海軍にとって容認できない武器でした。しかし、トラック島攻撃以降の情勢を受け、開発上の難点でもあった脱出装置を付けないままに回天は開発されることとなったのです。

 「回天」とは、天を回(めぐ)らす、つまり運勢を変える・形成を逆転させる、などの意味をもちます。約1.5トンもの炸薬を積み込む回天が体当たりに成功すれば、航空機を満載した空母も真っ二つになるほどの威力を見せたに違いありません。追い込まれた日本海軍も期待を寄せたことでしょう。

 しかし、私は黒木大尉、仁科中尉が回天の成功で日本がアメリカに勝利できると考えていたようには思えません。

 例えば、回天には「菊水紋」が描かれます。この菊水紋は、南北朝時代の武将・楠木正成が用いていた紋です。楠木正成は後醍醐天皇に味方し、武家政権を目指して反目した足利尊氏と最後に湊川(現在の神戸市)で戦うこととなります。九州から攻め上る足利尊氏の大軍に対して勝ち目のない戦いを楠木正成は挑み、敗れて自害します。自害の際、「七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん」と語ったと伝えられます。これは「七生報国」と表される精神ですが、この精神は菊水紋とともに回天特攻隊員に引き継がれました。

 この他、イタリアが日本・ドイツを裏切る形で早期に連合国に降伏することを黒木大尉が予想していたなど、残された記録を読んでも、回天は敵になんとか一矢報いたい、日本人の誇りを守るために戦う武器だったように私には思えるのです。

町内中学生の職業体験学習

8月 3rd, 2012

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

オリンピック観戦で寝不足の方も多いのではないでしょうか。

暑さが厳しい日が続いていますので、体調には十分

ご注意くださいね。

 

さて、7月31日から8月3日までの4日間、町内の竹来中学校の2年生9人が

予科練平和記念館に職場体験学習に来て、館内のさまざまなお仕事を

一緒に頑張ってくれました。

 

まず午前中は、展示解説員さんと一緒にお仕事です。

展示解説員さんは、展示室内でのご案内や展示の説明、展示物の監視など

館内各所でさまざまに気を配っています。

また、窓口では、チケットを販売したりお客様からのお問い合わせに答えたりします。

 

 

 

立ち姿がさまになっている渡辺君。

ここの職員です、といっても違和感がないぐらいなじんでいます。

映像室のイスの出し入れも手伝ってくれました。

 

 

 

展示室前で待機する山﨑君。

器械体操をしているそうで、不審者が来てもうまく対応してくれそうな

頼もしさがあります。

 

 

 

お客様を送り出す木道君。

野球部だそうで、お客様の邪魔にならないようにと考えながらの

身のこなし方がすばらしかったです

 

 

窓口では、お客様にリーフレットを渡したり、お手洗いをご案内したりする

仕事をお願いしました。

リーフレット一つわたすのでも、お客様のほうに正面を向けたり、両手でお客様にとって

受け取りやすい高さでお渡ししたりと、気をつけるポイントがたくさんあります。

 

 

お客様にリーフレットをお渡しする橘さん。

今回唯一の女の子で、笑顔がとってもキュートでした。

お客様も笑顔になっていらっしゃいました。

 

 

 

解説員さんの説明を聞く方波見君。

仕事を覚えるのが早く、周囲への気配り、お客様のご案内も完璧でした。

仕事ができる人になる予感がします。

 

 

 

笑顔の沖君。

めがねが壊れるというアクシデントがありつつも、

穏やかな笑顔でお客様をお迎えしてくれました。

 

 

午後からは、私Wの仕事をお手伝いしていただきました。

まずは受け入れた資料の整理。

受け入れ時に番号をつけ、台帳に登録し、ほこりやカビなどを

クリーニングして、写真をとって、ほこりやカビを殺菌して、種類ごとに

分類して収蔵庫におさめる、というのが、当館で資料を受け入れるときの

一連の流れですが、今回は資料のクリーニングと

整理のお手伝いをお願いしました。

 

 

 

図書の整理を手伝ってくれる松麿君。

作業が細かくて大変?と聞くと、「やりがいあります」と言ってくれました。

奥にいるのは渡辺君です。

 

 

 

中性紙の袋に入れた資料を番号順にならべる吉田君。

考えて気をつけながら資料をとても丁寧に扱ってくれました。

奥の山﨑君と一緒に作業をしています。

 

資料の整理は時間がかかって結構大変なのですが、

中学生のみなさんにお手伝いいただいたおかげでだいぶはかどりました。

 

 

 

 

資料整理のあとは、クリーニングのお仕事です。

寄贈された予科練生が使っていた教科書を、1ページ1ページ丁寧に

ハケを使ってほこりを落としていきます。

30分も過ぎると、みんな手つきがプロっぽくなってきます。

こちらも地味なわりに結構時間がかかる作業なので、

中学生のみなさんにお手伝いいただけてとっても助かりました。

 

 

最後には体験の修了証をお渡ししました。

 

手前の竹沢君は、きちんと目を見て話を聞いてくれるところが

とても偉いと思いました。

体験の最後にも、ちゃんと「お世話になりました」と大きな声で言ってくれました。

 

 

ハードな1日で大変だったのではないかと思いますが、

みんな一生懸命頑張ってくれました。ありがとうございました。

中学生たちが仕事にあたる際に感じた緊張感は、私たちも忘れてはならないものだと思い、

改めてこちらも勉強になりました。

今回の体験が、みなさんの何かのお役にたてれば幸いです。

 

予科練平和記念館は、阿見町内在住の小中学生は無料でお入りいただけますので、

またいつでも遊びにきてくださいね。

心からお待ちしています。

 

特別展「回天」へのいざない③

8月 1st, 2012

 ロンドン五輪が始まりました。開会式はたいへん華やかでした。

 アトラクション中「平和の象徴」鳩に扮した人たちが自転車に乗り競技場に入ってきましたが、オリンピックは平和の祭典であることを忘れてはなりません。人間は優劣を争いたがるものです。しかし、命のやりとりをするのではない、ルールに則り「競争」するスポーツというものは、これからの人類にとってもきわめて重要でしょう。高度な技術をもつ人たちにとって、スポーツもまた綺麗事ではすまない世界なのだと思いますが、真からの感動を味わえる瞬間に多く立ち会いたいものですね。

 ちなみに日本とロンドンには約8時間の時差があるようです。日本の朝はロンドンの夜、つまり日本の夜はロンドンの昼間ということです。なんと、昼間ふつうに働いている私たちもテレビ観戦が出来るではありませんか。たいへんありがたいオリンピックです。

 

 ロンドン五輪が開幕する前に、こちら予科練平和記念館では特別展「回天」が7/21(土)から開幕しています。

 先回のブログでは、回天記念館の入口までご紹介しました。今回はその続きを。

 回天記念館の入口を入るとすぐ右に受付があり、ここから観覧が始まります。それほど大きな空間が広がっているわけではありませんが、ぐるっと一周する間に、回天の誕生から訓練・出撃と、回天による特攻作戦の全てがわかる展示になっています。

 茨城を含め関東地方からは遠い山口県ですが、美しい瀬戸内の海を見るだけでも価値があります。そして回天の故郷・大津島へも是非渡航して、必死を覚悟した回天隊員の心の拠り所となった島の風景も目に焼き付けてほしいと私は願っています。

 今回、予科練平和記念館で「回天」展を開催するにあたっては、山口県周南市教育委員会、および回天記念館の方々のご厚意を得て、通常なら回天記念館に展示されている資料もお借りすることが出来ました。お世話になった皆様に、ここに改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。

 

 さて、大津島からそのまま場を移して、というわけにはいきませんが、これから当予科練平和記念館の「回天」展をご紹介していきます。

 今回の展覧会の目玉の1つは、実物大回天模型およびコックピットを展示しているところです。

 これは、平成18年(2006)にTBS系列で放映された2時間ドラマ「僕たちの戦争」収録に使われた模型です。その大きさを実感していただくとともに、コックピットを覗いていただいたら、直径約1メートルという非常に狭い空間に身を置き覚悟を決めた搭乗員の心を想像してほしいところです。

 今を生きる私などがそのまま当時の薄暗い回天の中に収まったなら、訓練・攻撃どころではなく、気が狂ってしまったのではないかと思うことさえあります。