所蔵資料展がはじまります

11月 27th, 2011

みなさんこんにちは。

来週の29日(火)からはじまる所蔵資料展の準備に追われている

学芸員Wです。

所蔵資料展は学芸員の手作りで行なっておりますので、不器用な私は作業が遅く、

来週のオープンまでに間に合うかどうか、かなりドキドキしています。

 

今回の展示は今までとちょっと違っていて、明治~大正期の

除隊記念品を中心に、当館で所蔵している旧日本陸軍の資料を皆さんに

ご覧いただこうと思っております。

 

 

明治の人たちが徴兵による兵役を無事終えた記念につくった盃です。

 

 

日清・日露戦争に勝ったことを記念して作られた徳利です。

こうした記念品約130点を展示する予定です。

 

 

日本が国の軍隊を持つようになったのは明治時代からのことです。

徴兵令が施行されたのが明治6(1873)年。

明治22(1889)年に施行された大日本帝国憲法には

20歳以上の男子の兵役義務が明文化されました。

 

江戸時代の徳川幕府による政治から天皇を中心とした中央集権体制へと変わり、

西洋文明を積極的に取り入れて世界の列強に並ぼうとした日本。

各藩の士族が中心だった国防は、徴兵制により広く一般国民がになうことになります。

それまでの士族による封建的な軍隊ではなく、近代的な軍を作り上げることを

目的としたためです。

 

農業や漁業、林業といった一次産業に従事する人が多かった

時代のことですので、

働き盛りの男手を軍隊に送ることは大変だったと思います。

 

無事に兵役を終えた人たちは、記念品を作って配る習慣があったようで、

「除隊記念」「満期祈念」などと書かれた盃がたくさん残っています。

 

このほかにも、隊が改編されるときの記念の盃や、戦地から帰ってきたときに

作られた盃などがあります。

いわゆる「兵隊盃」といわれている一群で、様々なデザインのものがあり、

コレクターも多いとか。

また、日露戦争の後はこうした盃や徳利などがたくさんつくられて、陶磁器の産地は

好景気にわいたそうです。

歴史はいろんな側面がありますね。

 

今の日本には徴兵制度がありませんが、こうした資料から、軍が身近にあった時代の

人たちのことを考えていただければ・・・と思っています。

 

あわせまして、当館で所蔵している陸軍関係の資料も展示する予定です。

海軍の予科練とはまた違ったことが見えてくる資料の数々、ぜひご覧ください。

 

 

第4回所蔵資料展「重キ務メヲナシオヘテー除隊記念品展」

11月29日(火)~平成24年3月25日(日)

9:00~17:00(入館は16:30まで)

予科練平和記念館20世紀ホール

予科練平和記念館常設展観覧チケットでご覧いただけます

大人500(400) 小中高生300(240)円

(  )内は20名以上の団体料金及び各種割引提携カード提示による割引料金

 

 

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さて、街はすっかりクリスマス仕様になっていますね。

予科練平和記念館の館内にもクリスマスがやってきました。

 

 

帆かけ船の隣にあるのもまた味があります。

布でつくられたツリーは解説員のOさんお手製で、丸みを帯びて

温かみがあってとってもかわいいです。

Oさん、今年も飾ってくれてありがとうございます!

 

ツリーはお手洗いの中にもありますので、ご来館の際にはぜひ寄ってみてくださいね。

 

 

今年最後の月に向けてだんだんと忙しくなってきましたが、季節の楽しみに目を向けて

気持ちだけでもわくわくしていきたいものです。

空気が乾燥して風邪がはやってきましたので、皆さんもどうぞお気をつけくださいね。

 

イベント報告・歴史調査委員講演会

11月 22nd, 2011

 秋も深まってきました。テレビで北国の雪を見るようにもなると、関東の暖かさがありがたく思えます。予科練平和記念館がある阿見町にも筑波山から冷たい風がやってきますが、積雪がないということは本当に恵まれていると断言できます。

 皆さん、元気に動き回りましょう。

 

 さて、去る11月20日(日)に予科練平和記念館歴史調査委員講演会「連合艦隊司令長官 山本五十六元帥が阿見町に残したもの」が開催されました。多数の方に来ていただくことができました。ありがとうございました。

 

 

 講師は井元潔氏に務めていただきましたが、以下に講演の概要をお伝えします。

 

 

◇山本五十六とは

※1884年(明治17年)旧長岡藩(新潟県長岡市を中心とする)の儒学者であった高野家に生まれる。

※1916年(大正5年)旧長岡藩家老山本家の養子となる。長岡精神(文武両道、質実剛健、常在戦場、米百俵)を堅持した。

※1919年(大正8年)から2年間アメリカに駐在しハーバード大学に留学するなどの経験もあり、アメリカのことをよく知っていた。

※1924年(大正13年)霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭となる(階級は大佐)。航空戦力の重要性に早くから気付き、海軍航空戦力の育成と発展に尽くした。

※1925年(大正14年)アメリカ大使館付武官として任官。(霞ヶ浦海軍航空隊には約1年3ヶ月いたことになる)

※日独伊三国軍事同盟締結、すなわちアメリカとの戦いに生命を懸けて反対した。「…現在、世界を見渡して、飛行機と軍艦では日本が先頭にたっていると思うが、しかし、工業力の点だけは全く比較にならぬ。米国の科学水準と工業力を併せ考え、また、石油のことだけをとってみても、日本は絶対に米国と闘うべきではない。…」(太平洋戦争開戦の2ヶ月半前、長岡中学同窓会における講演)

※連合艦隊司令長官として太平洋戦争の海軍を指揮し、1943年(昭和18年)4月18日ブーゲンビル島上空で戦死。

 

◇山本五十六元帥が阿見町に残したもの

1[霞ヶ浦海軍航空隊副長時]大正13~14年

※土浦市全国花火競技大会の開始・霞ヶ浦海軍航空隊海軍航空殉職者供養塔の建立

 山本大佐(当時)は・規律の刷新・航空事故防止施策・航空殉職者慰霊に力を注いだ。神龍寺の隣接地に住んでいた山本大佐は住職の秋元梅峰和尚と懇意になり、和尚の助言などもあって殉職者慰霊のための花火大会などを実現した。

※霞ヶ浦神社建立

 山本大佐は訓練中の事故などによる殉職者を少なくすることに腐心し、また、殉職者の慰霊に努めた。(靖国神社に祀られない殉職者慰霊)

 

 

※霞月楼との交流

 山本大佐は賭け事や将棋など遊びが好きな一面をもっていた。お世話になった霞月楼(土浦市)の2代目堀越正雄・満寿子夫妻には太平洋戦争開戦前夜に手紙(「…最後の御奉公に精進致居」の文言がある)を送っている。

 

2[航空本部長時]昭和11年

※搭乗員選抜に手相骨相を導入(霞ヶ浦海軍航空隊)

 

3[戦死後]昭和18年~現在

※山本五十六全身像建立

 山本五十六全身像は昭和18年12月に土浦海軍航空隊本部前・号令台横に建立された。予科練とは直接関係しなかった山本五十六像が土空に建立された理由について、昭和天皇の義理の兄・久邇宮朝融王(くにのみやあさあきらおう)の意向が強く反映されているのではないか、と井元氏は考えている。(予科練を含む練習連合航空隊司令長官であり、山本五十六との親交も深かった久邇宮朝融王は現在の稲敷市大日苑から土浦海軍航空隊へ通っておられた)

 

 

※常在戦場碑建立

 山本五十六が昭和10年に郷里長岡にて揮毫した「常在戦場」の碑は、昭和19年に土浦海軍航空隊内にあった土浦神社に建立された。その後、転変を経て、昭和35年に山本五十六元帥像があった台座に移され現在に至っている。

 

 山本五十六も1人の人間であり、公私それぞれにおいて長所・短所ない交ぜになった生き様を見せたものかと思います。しかし、人の上に立つ者が必ずと言っていいほどに備えている「人、特に弱者を思いやる心」を持ち、「現実を冷静に把握・分析し、行動の方針を立てる」ことができた人間のように私には感じられます。そして「勇気をもっていた」ことは、軍人であろうとなかろうと難しいことであると考えると、やはり尊敬の念が湧いてくるのです。

 

 歴史上の大人物の1人が阿見町に足跡を残してくれていることは阿見町にとってたいへん幸運なことです。

 残された形には必ず人の心が付き添うものですが、よい形にはよい心が刷り込まれているものです。皆様も山本五十六元帥が残した遺産を目にすることがあったときは、その人の心に是非思いを馳せていただきたく思います。

  今後も予科練平和記念館では各種の講演会を開催していく予定です。どうぞまた、当記念館に足をお運び下さい。

アートなお散歩

11月 10th, 2011

みなさんこんにちは。

昨日からぐっと冷え込みましたね。

茨城県は朝晩の冷え込みが厳しいところだそうですが、

フリースのパジャマに守ってもらって、今のところ何とか乗り切れている学芸員Wです。

 

フリースを開発してくださった方、本当にありがとうございます!

今年の冬もお世話になります。

 

 

8日の立冬を過ぎて、暦の上ではもう冬になりました。

明日11日で、東日本大震災から8ヶ月目を迎えます。

いまだ不自由な生活を強いられている方、身近な人の行方がわからない方も

多くいらっしゃると思います。

 

冷たい風に吹かれると、ふと、忘れようとしていた何か恐ろしく不安な気持ちを

のぞきこむような思いをすることがありますが、

冬の訪れが早い被災地の方々の不安はいかばかりかと、胸が痛くなります。

放射能の影響で立ち入りができなかった福島の沿岸部で一斉捜索が始まったそうです。

風がもっともっと冷たくなる前に、一人でも多くご家族のもとへ戻れるように祈っております。

 

 

 

さて、今日の予科練平和記念館にはたくさんのお客様がお見えになりました。

事前にご予約をいただいていた10の団体様のほか、当日お見えになったところが3団体。

あわせて13団体様がご来館くださいました。

職員、解説員が皆フル回転でお客様をお迎えして、慌しく1日が過ぎていきました。

 

 

どちらのお客様のご来館も嬉しいものでしたが、

今日はいつもとちょっと違うお客様もお見えになりました。

 

 

元気がでるようなカラフルな色の「アートわんこ」たちです。

茨城県桜川市にある知的障がい者施設の方たちが作ったもので、

「元気なアートコラボラボ2012・桜川芸術祭vol.3 ~晴れどきどき、

お散歩アート~」の一環で行われたワークショップです。

 

 

 

わんこは思い思いの色に染められているだけでなく、花が描かれていたり

名前が書かれていたりして、

姿もそれぞれ、世界で1体だけのオリジナルなわんこです。

一人ではちょっと緊張してしまうようなところも、自分のわんこと一緒なら行けそうですね。

足の代わりに車輪がついていて、リードでひっぱるとほんとにお散歩をしているようです。

 

普段はモノトーンで統一されている予科練平和記念館の館内が、ぱっと明るくなりました。

わんこの明るい色もそうですが、いらしてくださった皆さんの元気のお陰かもしれません。

 

 

学芸員Wがご案内させていただきましたが、皆さん真剣に説明を聞いてくださいました。

私にとっても、色々と勉強になるひとときでした。

 

皆さんとわんこに会えて、今日はとてもいい一日になりました。

解説員も、皆さんがいらっしゃるのを楽しみにしていました。

記念館の中から見る空はとてもきれいなので、またぜひお散歩にいらしてくださいね。

 

こうしてすてきなアート活動のお手伝いをさせていただけて、

本当に嬉しかったです。

また、プロジェクト事務局のKさんは、以前大変お世話になった方で、

しばらくぶりでお会いすることができて、懐かしく、嬉しく思いました。

 

ワークショップの様子は、作品となって下記の日程で展示されるそうです。

このほかにもすてきな作品とたくさん出会えると思いますので、

お時間がありましたら、皆さんもぜひご覧になってみてくださいね。

 

 

「元気なアートコラボラボ2012・桜川芸術祭vol.3 ~晴れどきどき、

お散歩アート~」

平成24年1月17日(火)~22日(日)

茨城県つくば美術館 展示室B

チケット代:500円

 

 

アートディレクターの出町光識(でまち・みつのり)さんは、学生時代の先生が

予科練出身の方だったそうです。

今日は犬のぬいぐるみを背負って、とってもあたたかそうなかわいい帽子をかぶって

いらっしゃいました。

上にある集合写真の真中あたり、肌色の顔をしたわんこを持っている方です。

ちょっと写真が小さいですが、わかりますでしょうか。

 

ブログも読んでくださったそうで、本当にありがとうございます。

頑張って更新していきたいと思いますので、これからも宜しくお願いいたします。

出町さんのますますのご活躍を楽しみにしております。

 

出町光織さんのHP

http://www.mitsunoridemachi.com

 

 

 

また、今日は前回お伝えしました予科練1期生の伊藤進さんから

お手紙をちょうだいしました。

読むとくすっと笑ってしまう、ウィットに富んだお手紙でした。

その一部を、ブログを読んでくださっている皆さんに――

 

 

(お家がとってもきれいだったこと、スーツが似合っていらっしゃったとブログに書いたことに対して)

家内は京都女子大ですが多分掃除洗濯科卒でしょう。

(中略)私も毎日の様にお客様 メーカー 問屋さんの訪問客にお目にかかりますので

身奇麗は予科練時代からの躾です。

予科練(横須賀)、飛行練習生(土浦 今の武器学校)ではトイレ掃除は輪番でよくさせられました。

土浦の冬は寒かったですが掃除は上手でした。海軍の軍人上がりは掃除洗濯は皆上手です。

お酒より高価な水を使って洗濯するのですから(軍艦では)。

 

 

伊藤さんのお人柄が思い出されて、思わずほっこりしました。

伊藤さん、元気の出るお手紙をどうもありがとうございました!

 

インタビューの様子は、また次回ご紹介したいと思います。

楽しみにしてくださっていた方、申し訳ございません。

 

このブログは、学芸員Aと学芸員Wが週がわりで更新しています。

来週は学芸員Aが担当いたしますので、どうぞお楽しみに。

 

 

イベント報告・元予科練生のお話会

11月 8th, 2011

 文化の日、11月3日(木)に元予科練生のお話会を開催しました。

 

 講師は元予科練甲種13期生・池田龍雄様でした。池田様は現在も画家として日本の第一線でご活躍されています。 

 

 

 池田様のご略歴をご紹介します。

・1928年(昭和3年)8月15日、佐賀県伊万里市生まれ。

・1943年(昭和18年)海軍飛行予科練習生甲種13期生として鹿児島海軍航空隊に入隊。

・1945年(昭和20年)特攻隊として霞ヶ浦海軍航空隊にて訓練(九三式中間練習機「赤とんぼ」での特攻要員)

・17歳の誕生日に玉音放送を聞き終戦を迎える。佐賀へ帰郷。

・同年秋に佐賀師範学校入学。

・1946年(昭和21年)秋、マッカーサーの占領政策により師範学校追放となる(終戦時、1等飛行兵曹/下士官に昇任していたための処置)

・1948年(昭和23年)現在の多摩美大に入学。岡本太郎らの戦後アバンギャルド(前衛)芸術運動に参加。

・以後、個展、グループ展、美術館企画展を中心に活動。  

 

 以上、池田様のご略歴と言っても本当に略歴に過ぎないこれらの言葉からでさえ、池田様の波瀾に満ちた人生が感じられるようです。 

 池田様が予科練に入隊したのは当時の「尽忠報国」思想が当たり前に存在した世相の中で、ごく自然に「お国のため」という考えからのことだったそうです。

 予科練に入ってからは厳しい訓練、そして時として理不尽なしごき・罰直に耐えながらパイロットとしての道を進んで行かれたとのことでした。

 

 終戦直前の約4ヶ月は霞ヶ浦海軍航空隊で特攻訓練に明け暮れたそうです。岩国から移動してきた際の感想「霞ヶ浦飛行場は周囲を松に囲まれて非常に美しかった」というお言葉が印象的でした。夜間の訓練中には満月に近い月光を受けて聳える筑波山に心を奪われることもあったそうです。

 終戦間際の7月末には夜半に鹿島灘方面への特攻命令が出たものの、なんと夜光虫の誤認であることが分かり出撃中止。250キロ爆弾が赤とんぼに鎖で固定されるのを見ながら出撃前には特に悲壮感はなかったそうですが、爪と髪を封筒に形見として残すよう命令を受け「17年生きて残るのはこれだけか」という索漠とした思いを抱いたそうです。

 「お国のために」命をなげうつ覚悟で訓練を重ね、投げ出されるように終戦を迎え、情報も混乱する中で「これからどうしたらいいのだろう」という気持ちになったとのことです。しかし、故郷に帰る途中未だ焼け跡も生々しい広島の惨状を見た後、家に着いたときお母さんがただにっこりして迎えてくれたのを見たとき「やはり、生きていてよかった」と思ったそうです。

 その後は、若くして数々の試練に遭いながら画家を志し、岡本太郎ら超一流の芸術家と交わりながら、池田様は前衛絵画の道を邁進してこられました。

 ただ「昔から絵は上手だったけれど、絵描きになりたいと思っていたわけではないんです。それしか道がなかったからそうするしかなかった」また「軍国教育も上からの押しつけという側面がある。間違ったことからも逃れられないことがある。自分は誰にも指図されない、自由な生き方をしたいと思った」などの言葉から、私などの戦争の「せ」の字も知らない人間など計り知れないほどの悔しい思いをされ、またご苦労をされ、微動だにしない覚悟の元に生きてこられたのだと私は考えました。

 

 

 講演終了後、座談に入ってから「生きてきてよかった。人の死に方は様々だが、最もいけないことは殺されることだと思う」というお言葉がありました。「殺されるということは殺す人間も存在することであり、これもあってはならない」と言われました。人間の文化を普遍的に貫通する深く、重いお言葉だと思います。

 

 私など甘く甘く生きてきた者には、池田様のお言葉が生まれる人生体験をすることなどあり得ないことでしょう。ただただ「殺人をしない。人殺しをしなくて済む社会を作る」という現象を生真面目に作り出していくことだけです。

 

 池田様はもちろん、戦後復員された元予科練生の方々のご活躍を見聞するにつれ、予科練生には非常に優秀な方が揃っていたことが改めて分かります。そのような優れた方々が若くして命を落とした時代が確かにあったのです。このことを私たちはよくよく考えなければならないでしょう。

 

 もし、池田様の作品を見ることがあるときには、お話会当日のお元気なお姿を思い出しながら、色と形で作り上げられた絵というものから池田様が何を伝えようとされているのか、是非とも深く観照していただきたいと思います。池田様の人生から私たちが学ぶべきことはきっと多くあるでしょう。

 

 なお、講演の内容は御著書「蜻蛉の夢(海鳥社)」にも含まれています。

 

 

 また、池田様の個展も開催予定ですので、渋谷に行く機会がある方は、どうぞ足をお運び下さい。