「Reyte-予科練生が見たレイテ沖海戦」①

10月 5th, 2014

 紅葉の見頃を伝えるニュースを聞く頃となりました。空気も冷えて涼しく、空が「抜けるように」青く、そして高く感じられます。

 

 現在、予科練平和記念館では企画展「Reyte-予科練生が見たレイテ沖海戦」を開催中です。

レイテA4チラシ_web[1]

 レイテ沖海戦は昭和19年(1944)10月に行われた戦いです。同年2月には、南方の要衝だったトラック島が大空襲を受け、事実上機能しなくなり、サイパン・テニアン・グアム島も夏には連合軍に占領され、いよいよフィリピンへ連合軍が迫ったのでした。

 

 レイテ沖海戦を体験された元予科生がご健在です。これから数回に分けて、レイテ沖海戦の体験談を含め、伺った体験談をご紹介していきます。

 

橋原正雄氏(大正13年生まれ-90歳。丙種12期生)

橋原正雄氏

 

 私は、橋原正雄といいます。静岡県沼津市の生まれです。旧制の沼津中学校を卒業しまして、まあ学生時代はですね、教職員を希望しておりまして、在学中にその資格も取ったんですが、当時の内外情勢ですね、非常に険しいものになってきまして、仲間はみんな陸軍、海軍へ志願していくわけですよ。「そんなに早くいくことは無いだろう」なんてね、「二十歳になればもう、否応なしに検査を受けて行くんだから」って言われたんですがね。もう私の性分として、陸軍でも海軍でも行きたいという希望があって、親戚の叔父さんも、相談をしましたら「ひとつ、自分の思うとおりにやってみろ」と。せっかく教職免許も取ったんだけれども。同級生なんかに押されまして、あるいは引っ張られたのかな、海軍へ志願をしました。

 一人だけ、私のその出身地から海軍に入った兵隊さんがいました。その方が休暇で来た時に、村のみんなを集めて海軍の話をしてくれたわけです。「ああ、すごいなあ、立派な、いい格好だなあ」なんてねえ。それ聞いて憧れましてね。それでまあ、昭和16年(1941)の5月1日。横須賀海兵団楠ケ浦練習部というところへ入隊をしました。

 適性検査を受けて、まあ合格ということになって、新兵教育が始まったわけです。一般の海軍では一か月ぐらい新兵教育をやると、それぞれの現地へ派遣されるという風に聞いてましたけれど、なぜか私は楠ケ浦練習部で二ヶ月、まあ座学ですねえ、座って教官からの話を受けていました。座学は一般的なものだったんですけれども、数学が主でしたね。アルファ、ベータ、シグマでしたかね、ある一点を与えられて、あとのこのAとBの距離とか、それからAとDの距離であるとかそれらを算出するんですけれども。まあ座学で一番しぼられたのはこの数学でした。

辻堂演習

 それから陸戦、鉄砲持ってですね、ええ、剣も持ってそこらを駆けずり回るわけですよ。徒手訓練とか。これで一番つらかったのは辻堂演習。神奈川県に辻堂っていうとこがありますわな、あそこの海岸の砂浜でね陸戦やるんですよ。これがきつかったです。砂浜ですからね、駆け足しようと思ってもなかなか足が前へ出ないわけです。足がめり込んじゃってね。うん。まあそれが一番、まあ記憶には残ってますね。

 他にもいろんな競技あるんですよ。ハンモック競技、まあ吊り床の競争をやるんです。ピュッて、班長が鳴らしますとね、もうハンモック抱えてビュームっていうんですが、これひっかけて、それで寝るばっかりにして、吊り床をつるんですよ。これ各班の対抗の競技でした。負けるとね、昼飯食わしてくんねえんですよ。ハハハハッ。いやあ、負けたことはなかったんですけれどね。

SI Exif

 あとカッター競技ですね。これがまたこう、手にマメがいっぱいできちゃってね。あれもきつかったですねえ。おしりは真っ赤にこすれちゃって。このカッター競技も負けるっちゅうといろいろ罰直食らったわけですけれど。

 まあそんなことを二ヶ月もやって終わってですね、上からの命令で海軍の通信学校へ行くことになりました。