特別展「回天」エピローグ①

11月 11th, 2012

 平成24年度予科練平和記念館特別展「回天」は10/28(日)をもって終了しました。会期中には多くの方にご来館いただき、まことにありがとうございました。

 過ぎる11月初めには、山口県周南市回天記念館へお借りした資料を無事に返還することができました。

 終戦間近の予科練生は厳しい運命に翻弄された感がありますが、回天記念館のある山口県大津島も予科練生と直接関係する場所の1つです。今年に入り展覧会業務のため春夏秋と私は3度訪問する機会に恵まれましたが、その風景はしっかりと脳裏に刻まれたように思います。回天搭乗員が特攻訓練を行った地であり、美しく穏やかな瀬戸内の風景が広がるところであり、様々に考えさせられる大津島でした。

 皆さんにも、是非、のんびりと船に乗って大津島を訪れて欲しいと思います。

 

 展覧会終了後、予科練平和記念館からお隣の自衛隊武器学校に通じる広場に、展覧会の主役を無事に務め終えた回天模型が展示されました。

 回天の実物大模型は、私の思い違いでなければ、当館の他には靖国神社遊就館、広島県呉市大和ミュージアム、山口県周南市回天記念館および徳山港、同じく山口県平生町阿多田交流館にしかありません。回天一型を訓練用に白/グレーに塗り分けた実物大模型は今のところ全国でこの予科練平和記念館にしかないと思います。

 当時の様子に思いを馳せるための貴重な資料です。1人でも多くの方に見ていただきたいと考えていますので、どうぞご来場下さい。

 

 今回のブログでは、展覧会会期中2度にわたり講演していただいた元回天搭乗員・塩月昭義様(元甲飛13期-奈良空)の講演内容レジュメをご紹介いたします。塩月様は、光基地-大神基地を歴任され、最後は基地回天隊・麦ケ浦基地(愛媛県)で終戦をお迎えになりました。予科練生の例に洩れず、私などが言うのもおこがましいことですが、塩月様も大変優秀な人材でいらっしゃることが84歳をお迎えになった今も感じられる方です。

 予科練生として飛行機搭乗員を志し、後に回天搭乗員として訓練をお受けになり、戦後様々な思いを抱かれて生き抜いてこられた塩月様のお言葉を、大いに想像力を働かせながら噛み締めていただきたいと思います。

 字数の関係もあり、これから2回に分けてご紹介します。

 

「回天」

 大東亜戦争の開戦劈頭、真珠湾とマレー沖における日本の海軍航空隊の活躍は世界を震撼させた。日本人の多くは海軍航空隊でこの戦争に勝てると思った。ところがアメリカ海軍は半年後には主力艦の対空砲火を数倍に強化して、日本雷撃機の最低空・最低速での接近中にその大半を撃墜するようになったため日本の海軍航空隊による魚雷攻撃はわずか半年で通用しなくなった。

 消耗を重ねる長期戦は総合力に劣る側が不利なのは自明の理である。開戦半年後にミッドウェーで敗れ、続く半年のラバウルを基地とするニューギニアやガダルカナルの航空戦においてミッドウェーの何倍もの搭乗員や飛行機を失う戦いを目の当たりにした海軍将兵の多くは開戦一年後には飛行機ではアメリカに勝てないことを確信するようになった。

 勝てない戦いを目撃した若い士官達の中から起死回生の戦術として提案されたのが日本海軍の虎の子の酸素魚雷と潜水艦を活用しようという人間魚雷 “回天”(注)であった。

(注) 航続距離を増すため酸素魚雷の酸素ボンベと燃料を2組装備し、特眼鏡という小型潜望鏡や操縦装置をつけた直径1メートル、全長14.75メートル、最大速力30ノットの一人乗り大威力魚雷。10ノットで約80キロメートルの航続距離を有し、大型潜水艦のデッキに最大6基搭載され潜水艦長の指示により自力で発進し敵艦船を襲撃した。主力艦船を失った海軍は回天の生産に全力を上げ、終戦までの約一年間に400基以上を生産し80基が潜水艦で出撃し、さらに約80基が日向灘沿岸と土佐湾沿岸および八丈島のトンネルの中に配置され、米軍上陸部隊の来襲に備えていた。私もその中の一人であった。

 味方の損害を最小にし相手への打撃を最大にするのが戦術の要諦であるならば後に特攻と呼ばれるようになったこの攻撃法は一見粗暴に見えるが戦術としてはこれに優るものはない。ただこれには自分の生命を捧げることを厭わない志願者があることが条件である。総合的な国力の差を人間の生命で補おうという戦略で、生還の可能性のない兵器や作戦を採用しないという伝統を捨て切れなかった軍令部も昭和19年6月のマリアナ沖海戦に敗れて連合艦隊の主力を失った後に残された戦局挽回の方策はこれしかなく遂に承認された。

 長年にわたる猛訓練を積んだ優秀な飛行機搭乗員の活躍により大勝した真珠湾やマレー沖の戦闘でも、撃沈した敵主力艦一隻あたりの搭乗員の喪失は相手側に対空砲火しかなかったにもかかわらず十名を越えていた。それに対し回天では基礎訓練を除けば2ヶ月足らずの実技訓練で出撃可能で、命中すれば頭部に装着した1トン半の新型高性能爆薬で大型戦艦でも一人で確実に撃沈することができた。魚雷や特攻機と異なり一度襲撃に失敗しても洋上ならば燃料の続く限り何回でもやり直しができたため、250キロ爆弾しか積めず防御放火にも弱い特攻機に代わる最後の切札として一部の海軍首脳の期待を集めていた。

 二度の世界大戦を通じて通商破壊戦の花形であった潜水艦はその隠密性が唯一の防衛手段で、魚雷攻撃の前に敵の駆逐艦に発見されると耐圧の限界まで潜って執拗な爆雷攻撃をかわしきらない限り、破損沈没するか満身創痍で浮上して最後の砲戦を挑むかしかなく、多くの潜水艦が餌食にされた。それに対し回天を搭載した潜水艦ではそれで頭上の天敵を文字通り粉砕することができたため回天の出現以来、洋上における遭遇戦では敵の爆雷攻撃が及び腰になったことを歴戦の潜水艦長は実感したという。回天は潜水艦にとって将に鬼に金棒で搭載魚雷と合わせれば攻撃力は倍加された。

 このように回天は性能上も人命経済上も要員養成上も極めて優れたその当時の日本の究極兵器で、間に合わせの兵器とはいえ国家存亡の危機に自らの生命を捧げようとする若者にとってまさに理想の棺桶であった。惜しむらくはその出現が遅すぎ“回天を既墜に返す”ための時間がなかったことである。

 終戦直後、マニラに飛んだ日本の軍使に、マッカーサー司令部のサザーランド参謀長が真っ先に尋ねたことは回天を搭載した潜水艦が太平洋上に何隻残っているかということであったという。4月7日の戦艦大和の沈没以来、洋上で戦う日本の艦艇はそれしかなかったからである。約10隻(実際は8隻)との返事に“それは大変だ。一刻も早く戦闘行為を停止するよう厳重な指令を出してもらわねば”と身を震わしたといわれる。第七艦隊司令長官オーデンドルフ中将は “もし戦争がさらに続いていたならばこのものすごい兵器は重大な結果をもたらしていたであろう”と回顧録で述べている。広島と長崎向けの原爆をテニアン島に届けた後の重巡インディアナポリスを撃沈したのは、魚雷で十分と判断したイ58潜水艦の橋本艦長の発射した6本のうちの3本であったが、緊急信号も発しないで沈没した状況からみて回天に違いないとアメリカ海軍は思っていたようである。

(人間魚雷の具申)

 黒木博司という機関学校卒の海軍大尉は飛行機による攻撃が犠牲の方が多くて効果が少なくなったのを知ると、この上は一人一艦の体当たりで敵を沈めていく以外に勝つ方法はないとの結論に達し、ガダルカナル敗戦後間もない昭和18年3月、連合艦隊司令長官に体当たり兵器の採用を血書嘆願し人間魚雷の計画を要路に次のように説明して廻った。“このままでは日本は滅亡のほかない。いま何か決定的な手を打たなければ、悔いを千載に残すことになる。われわれはいつでも命を捧げる覚悟はしている。ささやかな命ではあるが捧げて甲斐あるある方法で捧げたい。そのためにはこの兵器を考えざるを得ない。”

 その後の長い紆余曲折の中で議論を呼んだ脱出装置をつけるという許可条件の技術的実現が困難を極めたとき黒木大尉たちは“脱出装置は不要である。敵前で脱出を望む搭乗員などいない。正確に敵艦に中ることしか考える者はいない。”といって反対した。最初の具申から1年半が経過した昭和19年8月1日、搭乗員から起った脱出装置無用の主張をいれて人間魚雷はようやく兵器として正式に採用され黒木大尉の提案で回天と命名された。この軍令部の1年半の逡巡とその間の潜水艦用法の誤りが日本の敗北を決定的にした。

  黒木大尉は試作品による訓練を始めた2日目の19年9月6日に海底突入事故で回天隊最初の殉職者となった。切迫した戦況のもとで設計・製造された回天は試用期間もまったく取れず工廠から運ばれてくるのを待ちかねて訓練に使ったため故障も事故も多く、操縦法も手探りから始めるしかなかったため訓練中の犠牲は覚悟の上であった。回天隊の戦死者80名に対して訓練中の殉職者16名という数字がその過酷さを物語っている。

(回天の訓練)

 魚雷は発射前に設定された進路と深度にしたがって自動操縦で走る。回天はそれらの値と速度を搭乗員が随時設定し変更することができるが自動操縦であることに変わりはなく自動車や飛行機とちがって初めてでも操縦できる。これが僅か2ヶ月の実技訓練で出撃搭乗員を養成出来る最大の理由であった。ただ水中では盲目航行で、速度と時間の積で走行距離を算出しなければならない。この計算を間違えると潜ったまま島に衝突したりする。

 訓練の最初は“隠密潜入露頂法・航法ならびにツリム作成法”といい、海図に記入した航海計画の通りに回天を走らせながら予定地点で露頂(浮上)して特眼鏡で自分の位置を確認し、出来るだけ静かに潜るといういわば回天の基本的な操縦術と浮力調整法の訓練で、操縦席の前後に3個ずつ設けられた海水タンクに燃料消費量に応じて均等に注水するのはかなりやっかいな操作であったが、それを怠ると浮力が増して潜りにくくなりスクリューの上げる水しぶきでたちまち敵に発見されるし過度に負浮量にすると露頂時の走行が不安定になるので、浮力を僅かに負に維持しておくのは隠密潜入露頂に必須の技術であった。

 自動制御というのは常にディジタル制御である。回天の縦舵機は電動ジャイロに連動した取舵と面舵の2値制御で厳密に言うと設定された進路を中心に正弦曲線を描く走行であるが動作そのものは安定している。それに対し横舵機は深度制御と姿勢制御の4値制御となり技術的にははるかに複雑である。そのためか舵が効きすぎて水面に飛び出したり浅い海で海底に衝突したりするイルカ運動を起こし易い。設定深度ゼロ(上げ舵一杯)で増速すれば尾部が沈むので水しぶきがほとんどなく潜れ、その後搭乗員が傾斜計と深度計を見ながら深度や速度を調節すればイルカ運動を防げるが慣れないうちは難しい操作である。

 そのような基礎的な操縦法の訓練を数回で終えるとあとはもっぱら航行艦襲撃の訓練であった。ところが航行艦襲撃は予想をはるかに超える難しさであった。初めての襲撃訓練のときには襲撃が終わって露頂したとき真後ろにいるはずの目標艦がとんでもない方向のとんでもない遠方にいるのを見てもすぐには自分の失敗と理解できなかった。ようやく気をとりなおして試みた次の襲撃も同じような失敗に終わった。目標艦の見張り員も“突入地点はわかったがその後どこに行ったか全くわからなかった”と云う程であった。

 潜水艦が航行中の敵の艦船を魚雷攻撃するときの最適位置は目標の進路の斜め前およそ60度、距離1500メートル以内(魚雷が目標の舷側にほぼ直角に中る関係位置)である。潜水艦長は目標を発見すると襲撃の前にまずこの位置を占めようとする。これを占位運動という。水中速力の遅い潜水艦が原則として待ち伏せしかできず丹念にジグザグ運動をする目標への占位運動が極めて困難であるのに比べ、回天では16ノットの戦速で追い討ちも含めてはるかに広い範囲に機敏な占位運動ができる。

 襲撃に好適の位置に達すると目標までの距離とその進路および速力を判定し斜進角度表を引いて回天の進路を定め電動縦舵機に指示して全速で突入するわけであるが単眼の特眼鏡で始めて見る敵艦船の進路や速力を判定するにはかなりの熟練を要する。狭くて薄暗い操縦席で短い時間に多くの数表の中から正確な斜進角度を求めるのは易しいことではない。

 驚いたことに日本海軍は襲撃訓練用にシミュレータ(机上襲撃演習機)を作っていた。今ならコンピュータで楽にできるであろうが当時は極めて複雑な歯車の組み合わせであった。

 私の場合、搭乗訓練をほぼ1日おきに合計21回実施して1ヶ月半で訓練を終えたがその間、海底に衝突したり訓練海面に紛れ込んだ民間の機帆船に衝突したりしながら際どく生き残ることができた。僅かに残っていた現役空母‘海鷹’(17,800トン)を卒業訓錬の目標艦にしたとき、その大きさに驚いたが同時にこれなら中ると直感した。

 特眼鏡で見上げた濃紺の巨大な海鷹の勇姿は今も私のまぶたに焼きついている。制海権も制空権もなくなった南方海域への7回の輸送船団護送作戦に従事し奇跡的に生き残っていた海鷹を目標に中一日おいて2回の襲撃訓練ができたことは望外の喜びであったが残念なことに同艦はその数日後に別府湾口で触雷し別府湾奥の浅瀬に座州したのち、アメリカ艦載機編隊とのロケット弾戦に敗れて豪華客船アルゼンチナ丸以来の短い生涯を終えた。

(護衛空母)

 日本海軍は平時に運用される豪華客船を戦時に海軍に徴用することを条件に建造費の半額を負担した。その中で護衛空母に改装されたのは、春日丸―大鷹、八幡丸―雲鷹、新田丸―沖鷹、アルゼンチナ丸―海鷹、(各17,800トン)の4隻である。

(航行艦襲撃と軍令部)

 回天は警戒厳重な港湾進入の困難性を予想し洋上における航行艦襲撃を目的として開発されたが軍令部は航行艦襲撃に対する搭乗員の技掚を信用せずあくまで停泊艦襲撃に固執した。ところが護衛空母の対潜哨戒機が活動するようになった20年2月の硫黄島海域や同年4月の沖縄海域においては敵艦船に対して魚雷戦はおろか回天戦の可能な距離まで潜水艦が接近することすら困難になった。泊地や密集する艦船に対する無理な接近により敵の哨戒機や護衛駆逐艦に発見され戦う前に回天もろとも撃沈された潜水艦は回天戦に参加した合計16隻中8隻に達し、戦死した回天搭乗員80名中の35名は潜水艦から発進するいとまもなく親船と運命を共にした。残りの45名の搭乗員も湾口や侠水道の通過中に防潜網に捕捉されたり敵の駆潜艇に攻撃されたりして、大敵を目前にしながら雄図空しく無念の自爆を遂げた例が少なくなかったことがアメリカ海軍の記録でも明らかである。

 回天による航行艦襲撃は確かに難しかったが、エンジン停止もスクリューの逆回転も出来ない回天を操って不完全な海図しか頼るもののない状況で始めてしかも特眼鏡で見る湾口や侠水道を防潜網や哨戒艇をかわしながら通過する困難さに比べれば、燃料の続く限り何回でもやり直しができる広い洋上での襲撃の方が搭乗員にとって気分的にはるかに楽であった。しかも陸地を遠くはなれた洋上では電波探知と見張による厳重な哨戒を怠らなければ潜水艦の方が先に航行中の敵の艦船を発見できることが多かったことを考えると、危険で困難な泊地襲撃よりも洋上襲撃の方が成功の確率ははるかに高かったはずである。

 回天の戦果が期待通りに上がらないことと航行艦襲撃に対する回天隊の熱望に応えて軍令部は沖縄戦の最中にようやく洋上における回天の航行艦襲撃を認め、沖縄海域の潜水艦を太平洋に回すことを認めたが、とき既に遅く大型潜水艦も残り少なく我々搭乗員が夢に描いた敵大型艦船との洋上における壮絶な一騎打ちの機会はほとんどなくなっていた。

 生き残った我々が声を大にして訴えたいのは、第一線の将兵が厳しく警告したにもかかわらず戦局の逼迫を正しく把握できなかった軍令部が、国を救えると信じて勇躍出撃した多くの尽忠至誠の若者をあたら南瞑の海に憤死させわが国を破滅に導いた重大な責任である。

 マリアナ沖海戦に敗れてサイパン・テニアン両島を占領されたとき、軍首脳も政治家も敗戦を覚悟したという。それから更に無駄な戦いを1年以上も続け犠牲者の8割をその間に発生せしめた当時の日本の戦争指導部の資質とは一体いかなるものであっただろうか。