イベント報告

12月 8th, 2012

 12月に入ってしまった、と思うまもなく一週間が過ぎて、先人が言う通りに時が経つ早さばかりを感じる師走です。

 例年より冷え込みが厳しいこの季節ですが、季節をさかのぼって今秋以降に行われたイベントについてご紹介いたします。

 

 今回は10月14日(日)に行われた「予科練平和記念館学習会~戦跡を巡る~」です。

 昨年から始まったこの学習会も3回目を迎えました。今年5月には鹿島海軍航空隊跡地(美浦村)大日苑(稲敷市)などを巡りました。

 今回は人間爆弾「桜花」特攻と関係が深い神之池(ごうのいけ)海軍航空隊跡地、および資料を見学するため桜花公園(鹿嶋市)神栖市歴史民俗資料館(神栖市)を訪問しました。

 当日は、予科練平和記念館のお隣、自衛隊武器学校(土浦駐屯地)での記念行事と重なり、参加者の駐車場確保に奔走することとなりました。ご不便をおかけした皆様には、あらためてお詫び申し上げます。

 予定より少し遅れながらも無事に出発し、稲敷市の大杉神社に立ち寄ってお参りしてから鹿島方面へ向かいました。

 これまでは阿見町近辺の戦跡巡りでしたが、今回は片道約90分を要する遠出でした。バス車中で「桜花」の学習会となりました。資料は当館歴史調査委員が作成してくれたものです。

「桜花」について

◇昭和20(1945年)3月から6月まで使用された(現在の陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地付近にあった第一海軍軍需工廠で生産される)。

◇マル大の名称で開発され「桜花」と命名された。

◇搭乗員は第一線部隊を除く全国の実施部隊搭乗員から選抜された(回天や震洋隊員のように、予科練や飛行予備学生など基礎教育中の者から選抜されたのではなかった)。

◇桜花は攻撃目標である敵艦付近まで「一式陸上攻撃機」の胴体に吊られて運ばれ、発進した。

◇桜花搭乗員戦死者55名(うち予科練出身者38名、飛行予備学生出身者11名)。一式陸上攻撃機搭乗員戦死者数365名(うち予科練出身者233名、飛行予備学生出身者24名)。

◇桜花部隊は昭和19年10月に百里原基地(現在の小美玉市)で編成され、桜花・一式陸上攻撃機・零戦などから成り「神雷部隊」と呼ばれた。同年11月に神之池海軍航空隊に移動し訓練開始。

◇訓練は零戦をグライダーのように操る方法が主だったが、一式陸攻から切り離されて着陸する訓練が1回だけあった。桜花には着陸用のそりが付けられていたが事故が多く、多数の殉職者を出した。

◇桜花特攻作戦は鹿屋基地(鹿児島)から10回の出撃を数えた。目標は沖縄上陸作戦中の連合艦隊艦船。

◇桜花は一式陸攻から切り離される前に、母機の一式陸攻もろとも撃墜されることがほとんどだった。

◇桜花の戦果は駆逐艦1隻撃沈。他、3隻に損傷を与えたにとどまる(アメリカ軍発表に基づく)。

 

 特攻という体当たり攻撃の発想が生まれたことには大きな問題点があるわけですが、桜花がたどった結末をこうして後世に知ると、更に「なんということが行われてしまったのか」と思わざるを得ません。

 予科練平和記念館第7展示室にて公開している上田兵二氏の遺書を以下にご紹介し、今回のブログを閉じます。

 

上田兵二(福島県出身、第7神雷桜花隊、昭和20年5月4日戦死、乙飛17期、20歳)

遺書

死 顧みれば二十年星霜の父母の御厚恩に対し深く御礼申し上げます。何一つとして御恩返しも出来ず甚だ遺憾に思ふ所があります。併しながら遂に其の時が参りました。此の未熟なる小生も○○の一搭乗員として敵空母を枕として太平洋の飛沫と消え父母の御恩に報いる事の出来た事を誠に喜びに堪えません。此れも皆生前父母様の御厚恩の賜と深く感謝いたします。身体は亡びても魂は永遠に護ります。

一億同胞の期待するが如き働きもなし得ざるも鬼畜米英に対し少々たりとも精神的物質的損害をあたへた事は御厚恩に対し万分の一なりとも誠に喜びに堪えません。もとより小生も名誉の功の為に突撃したのではありません。只護国の神として靖国神社にまつられる丈でも高栄の至りです。神州男子の誉此の上もなくこの感激を胸に抱きて、吾は七生報国を誓ふものなり。

後の事は宜敷御願い致します。お母さん兄弟姉妹の御健康御幸福をお祈り致します。

昭和20年2月17日

海軍一等飛行兵曹 上田兵二

母上様

一 婦女関係ナシ

一 金銭貸借ナシ