のんぶのこと

6月 27th, 2012

【速報】つばめのひながかえりました

おとうさんとおかあさんが交代でご飯を運んでいます。

 

 

一眼レフカメラを構えてシャッターチャンスを待っていましたが、

なかなかみなさんに伝わるような写真が撮れず・・・

右側の親つばめのとなりでちょこんと頭を出しているのが

ひなつばめです。

日に日に動きが大きくなってきているように思います。

ますます楽しみになってきました。

 

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

昨日に続いて今日も梅雨の中休みとなり、時々陽射しが入る予科練平和記念館です。

明日以降はまた梅雨らしいお天気になるそうですので、

梅雨バテにならないよう、みなさんもどうぞお気をつけくださいね。

 

さて、4月より開催しておりました第5回所蔵資料展『兄を追って』展ですが、

いよいよ今週末までとなりました。

たくさんの方にご来場いただき、本当にありがとうございました。

とりわけ今回の展示は、貴重な資料を寄贈してくださり、NHKさんの取材にも快く

応じてくださった辻 猛さんのお力によるところが大きいと思っております。

予科練だったお兄さんを想う猛さんのお気持ちが一つの形になったことで、

多くの方に大切なメッセージを届けることができたのではないかと思います。

これからも、予科練平和記念館に寄贈されている貴重な資料を

みなさんにご覧いただける展示を企画してまいりますので、

ぜひご覧ください。

 

第5回所蔵資料展『兄を追って』

7月1日(日)まで開催

9:00~17:00(入館は16:30まで)

常設展観覧チケットでご覧いただけます。

 

 

 

 

予科練平和記念館には、毎日さまざまなお客様がご来館くださっています。

なかには、ご自分の戦時中の体験をお話しくださる方もたくさんいらっしゃいます。

今日は、そのうちのお一人からうかがったお話を

ご紹介してみたいと思います。

 

 

展示室7「特攻」の前で待機していた解説員さんが、

「敷島隊の谷さんの同級生がいらしてますよ」と教えてくれたのは

5月3日、憲法記念日のことでした。

 

「敷島隊」というのは、海軍の特別攻撃作戦において

最初に戦果が確認されたとされる神風特別攻撃隊「敷島隊」のことで、

谷さんとは、隊員で元予科練生の谷暢夫(のぶお)さんのことです。

 

戦局がいよいよ厳しさを増した1944(昭和19)年10月、

爆弾を装備した零戦で敵艦隊に突入する特別攻撃 「特攻」作戦が決行されます。

最初の特攻隊「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」の4隊は、

予科練出身者を中心に編成されました。

 

敷島隊隊長の関行男さんと、予科練甲10期生の谷暢夫さん、

中野磐雄(いわお)さん、丙15期永峯肇(はじめ)さん、丙17期大黒繁男さんは、

1944(昭和19)年10月25日、フィリピンのマバラカット飛行場から

零戦に乗って飛び立ち、

命とひきかえの体当たり攻撃で護衛空母1隻を沈め、

3隻に大打撃を与えるという

戦果をあげたことが記録されています。

 

谷さんは、隊長の関機に次いで二番機で出撃。

森志朗著『敷島隊の五人』には、その最期が次のように記されています。

 

同艦(護衛空母カリニン・ベイ W注)「戦闘報告」は、関行男の最期を

次のように記述している。

「(零戦)突入と同時に、火焔(かえん)が噴き上げ、激しい熱気が飛行甲板に

みなぎった。しかしながら、それは、爆弾の破裂によるものではなかった。

甲板には大穴があき、火災が発生した。体当たりした零戦は粉々になったが、

胴体部分は飛行甲板前方をくるくる転がって行き、左舷側から海に転落した」 (中略)

舞鶴出身の一青年谷暢夫もまた、冷静に自らの使命を意識していたようである。

関の突入が不発に終わったことを知るや、彼はカリニン・ベイに向けて急降下をはじめた。

谷の突入角度はさらに急で、七〇度に近かった。

ただ一番機とちがってこの零戦は、無数の対空砲火の命中弾をあび、

すでに焔を吹き出していた。 (中略)

谷の零戦は危ういところで海中への転落を避けることができ、

かろうじて左舷舷側に体当たりした。機体は海に沈んだが、

今度は二五〇キロ爆弾が破裂し、水柱を吹き上げ、艦体にショックをあたえた。

 

 

息詰まる描写から伝わってくる谷さんは、何か人を超えたような強い意志で

自分の乗っている零戦の何倍もある大きな艦船にむかって行った、

という印象を受けます。

 

 

でも、本当の谷さんは、どのような方だったのでしょうか。

 

 

谷さんと舞鶴中学で同級生だったというSさんは、次のようなお話をしてくださいました。

 

― 谷さんはどんな方でしたか?

谷さんは2人兄弟で、お寺の息子でした。

あだ名は「のんぶ」。のん気なところがあって、誰かとけんかをするようなところはありませんでした。

軍人に向いているタイプではないと思っていました。

 

― 谷さんのことで、一番思い出に残っていることは何ですか?

中学のとき、漢文の先生がクラスの笑いをとるために谷さんを

何度もあてたことがありました。

みんなは「またのんぶが当った」という感じで笑ったことをよく覚えています。

 

― 谷さんが予科練に入ったことについて、どのように思いましたか?

予科練に入隊したのは急なことで、どうして予科練に行ったのか、と思っていました。

海兵(海軍兵学校)や陸士(陸軍士官学校)への道もあり、

皆それを目指していたので、

谷さんの入隊は突然のことで驚きました。

穏やかな性格の谷さんが特攻隊になったことを考えると、

だいぶ訓練を頑張ったのではないか。

よく、辛抱したと思います。

戦後谷さんの親御さんに聞いたところ、最後に帰ってきたときの様子で、

何かあるのではないか、と思ったそうです。

 

― 谷さんが最初の特攻隊になったことについて、どう思われましたか?

何故谷さんが特攻隊に選ばれたのか。海軍に対して言いたいことは今でもあります。

しかし当時はそういうことを口に出したらどうなるかわからない時代でした。

 

 

今日は久しぶりに谷さんに会えて嬉しい。

Sさんは目に少し涙をにじませて、最後にそうおっしゃいました。

 

遠い昔の記憶をたぐるように、少しずつ、少しずつ語ってくださった言葉は

とても重く、ぜひみなさんにもSさんのお話をご紹介したい、と思っていました。

 

谷暢夫さん(『敷島隊の五人』より)

 

 

みなさんは、どう思われましたでしょうか。

 

 

私のような泡沫学芸員ができることといえば、こうした方たちの声を

いただいて、広くみなさんにお知らせすることかもしれないと思っています。

 

またお話を聞く機会がありましたら、お知らせしますね。

 

 

特別展「回天」へのいざない①

6月 22nd, 2012

 私はうっかりして、夏至を迎えたと自覚せずにその1日を過ごしてしまいました。なんと、もう日が短くなり始めるのです。これからますます暑くなっていきますが、暑かろうが寒かろうが夕方の日の長さに安心感を覚える私にとって、夏至こそが一大事です。寂しくなります。

 

 しかし、予科練にふさわしい青空が広がる夏にむけて、予科練平和記念館では特別展が始まります。

 ホームページでは先行して広報を始めていますが、今夏7/21(土)から10/28(日)まで、特別展「回天」を開催いたします。

 「回天」展を開催する動機ですが、2006年(平成18年)にTBS系列の2時間ドラマとして放送された「僕たちの戦争」という番組があり(主演:森山未來)、その撮影に使われ、後に阿見町に寄贈された実物大の回天一型模型を実物大資料として見ていただこうということが一つあります。芸術作品もそうですが、物の大きさ、色、形には必ず意味があります。特攻兵器として誕生した回天の意味を、実物大資料から実感していただきたいと考えています。

 また、戦後まで予科練教育の中心地であった土浦海軍航空隊において訓練を受けていた甲飛13期生(昭和18年12月入隊者)からも回天搭乗員が選抜され戦死者も数えており、予科練というものについても再考していただく機会になると考えています。

 以上の理由を主にして、戦争、特攻について改めて考え、平和の大切さや命の尊さを皆さんと一緒に考え直す機会とすることを特別展開催の主旨としています。

 機会が許される限り、回天についてご紹介していきます。

 今回は、回天の故郷、とも言える山口県周南市(旧徳山市)や大津島についてご紹介します。

 私が展覧会開催のため回天記念館を訪問したのが4月、桜が満開の時でした。

 

 写真は私が泊まったホテルから見える徳山の様子です。稜線が美しい山をもつ町です。かつて地理の授業で習ったように、新幹線に乗り徳山に近づくと大きな石油化学コンビナートが海岸線に立ち並び、その規模の大きさからも重工業の町としての歴史を感じました。海を控えた町でもあり、美味しい魚を売りにしている食事処・居酒屋が多い町でもありました。

 私が島へ渡った日は快晴で、暖かく、見晴らしがよい日でした。

 驚いたのは、島の海の美しさです。透明なばかりでなく青々と透き通り、まるで南国のような瀬戸内の海でした。この美しさは昔から変わらないものだろう、と私は思いました。京都の夕焼け空の美しさが清少納言、紫式部の時代と変わらないであろうように。このような美しい海で、特攻「回天」の訓練が行われていたのかと思うと、戦争の残酷さを改めて考えさせられました。

 島には桜が咲き誇り、人口が少ないこともありますがたいへん静かなところで、「ここは回天の故郷なんです」という回天記念館松本紀是館長のお話が何より実感できました。

 茨城からは遠い山口大津島ですが、その風景を見るだけでも、是非とも訪れてほしい土地だと私は思っています。

幸せの黄色い数珠

6月 16th, 2012

みなさんこんにちは。

オリンピックイヤーということもあり、最近のニュースはスポーツの

話題で盛り上がっていますね。

そんななか、火曜日のサッカー日本代表対オーストラリア戦で、今週一週間分の

全体力を使い果たした学芸員Wです。

 

サッカーをよく知らない私でも、いろんな場面で疑問が残るジャッジが

下されていたように思われて、

個人的にはまだもやもやを引きずっていますが、

それが世界で戦うことの厳しさなのかも知れないな、と思って自分を納得させています。

そういう状況でも全力で戦っているザックジャパンのみなさんは、

ひかえの選手や裏方の方たちも含めて本当にすばらしいですね。

試合を見ている方たちにも、子どもたちにも、大きな夢を与えてくださっています。

私も勇気をもらいました。

エキサイティングな三連戦で毎日が楽しかったです。ありがとうございました!

 

オーストラリア戦応援のための弾丸ツアーに参加したサポーターさんたちの

帰りの飛行機が、たまたまザックジャパンのみなさんと同じだったそうですが、

監督や選手たちがサポーターさんの席をあいさつしてまわってくれたそうですね。

毎試合後のインタビューで、いつもサポーターさんたちへの感謝を

言葉にしてくださる選手のみなさんですが、

言葉だけではなく実際に行動なさるところが、とても男前だと思います。

さすがSAMURAI BLUE。強いからこそ優しくなれるんですね。

 

次の予選は鹿島アントラーズでも活躍されたジーコ監督が率いるイラク。

9月のこの試合も見逃せませんね。全力で応援したいと思います。

 

 

予科練平和記念館で今見逃せないものといえばこれ。

 

 

 

つばめさんたちです。

監視カメラの上でたまごをあたためています。

今日もなにか動きがあったのか、しきりにたまごを気にしているような

そぶりを見せています。

もしかしたらもう間もなく生まれるかな、と、みんなで楽しみにしています。

 

 

さて、先日6月10日(日)には、阿見空襲の慰霊祭が行われました。

今年もこのお二方がご来館くださいました。

 

 

元特別丙種予科練習生(台湾、朝鮮半島出身の予科練習生)の教員だった

橅木(かぶらぎ)光一郎さん(左)と、元甲種14期予科練生の佐藤彰男さん(右)です。

 

佐藤さんは、柔和な笑顔が印象的で、とっても紳士です。

記念館にもたくさん資料を寄贈してくださっていて、その一部を

展示させていただいております。

 

橅木さんは、展示室6「窮迫」の映像の中にも出演して

くださっています。

この映像を撮影したのは夏の暑い日だったのですが、

まわりが暑さでぐったりしているなか、

橅木さんはきちんとジャケットをお召しになり、背筋を伸ばして,

恐ろしい空襲の経験をお話してくださったのがとても印象に残っています。

 

91歳の今もお元気で、この日もご自分で車を運転してのご来館でした。

 

橅木さんはお見えになってすぐ、「これをあげるから」と、私の腕に

黄色い数珠をつけてくださいました。

戦後、受け持っていた台湾の予科練生たちの招待を受けて

台湾旅行をなさったときにいただいたものだそうです。

 

そんな大切なものをいただいていいものかどうか迷いましたが、

「孫娘のようなものだ」と言ってくださる橅木さんのお気持ちがありがたく、

喜んで頂戴することにいたしました。

 

橅木さんは、1942(昭和17)年徴兵により海軍に入団、巡洋艦「高雄」に乗り組みます。

沈没する船から日本兵を助けたり、ダッチハーバーで実戦に参加したりと

様々な経験をなさり、けがの療養後に土浦海軍航空隊に教員として赴任します。

その1ヵ月後、1945(昭和)20年6月10日、勤務地の土浦海軍航空隊は

大規模な空襲にみまわれました。

 

 

橅木さんはその日の朝、警戒警報が発令されたために見張りの責任者として

庁舎の屋上にいたそうです。

空襲は4回にわけて行われ、1回目はそれほど被害がなかったそうですが、

2回目は、低空で侵入してきたB-29が落とす爆弾が兵舎及び講堂に命中、

周りがものすごい勢いで火の海になったため、「総員退避」の命令で

あらかじめ決められていた退避壕に逃げたそうです。

 

その壕に何となく違和感を覚えた橅木さんが別な退避壕に移動したところ、

3回目の空襲で最初に入った壕と庁舎屋上が直撃され、

そこにいた方たちは全員死亡、あたりはおびただしいけが人と死体が散乱して、

橅木さんの言葉を借りれば「阿鼻叫喚(あびきょうかん)の修羅場」だったそうです。

 

まさに危機一髪命を永らえた橅木さん。

戦後は毎年欠かさず空襲の慰霊祭にご出席なさっておられます。

 

 

そんな強い運をお持ちの橅木さんが大切になさっていた数珠ですので、

きっと強いパワーを秘めているのではと思っています。

私Wも、橅木さんの強運を少し分けていただいて、

沈没したタイタニック号から生還した「不沈のモリー・ブラウン」のように

世間の荒波を乗り越えていきたいものです。

 

幸せの黄色い数珠は、今私の机に鎮座しています。

 

 

テープで貼ってあるのはご愛嬌ということで。

台湾の練習生から橅木さんへ、橅木さんから予科練平和記念館へ。

海をわたってやってきた数珠は、予科練平和記念館を護ってくださるのかもしれませんね。

ご縁というのは、本当に不思議なものです。

 

もし、幸せの黄色い数珠をご覧になりたいときには、どうぞ窓口にお声をおかけください。

みなさんにも強い力をわけてくださるかもしれません。

 

受け継ぐ思い

6月 13th, 2012

 よいお天気が続いていましたが、私にとっては「帳じりを合わせる」ように、梅雨入りとなったようです。

 しかし、鬱陶しいと考えずに、紫陽花(あじさい)が映える季節を迎えた、と考えてみませんか。

 

 さて、本年7月21日から、当予科練平和記念館では特別展「回天」を開催します。

 あるいはご存じの方が多いかもしれませんが、2005年(平成17年)にTBS系列の2時間番組として放映された「僕たちの戦争」の撮影に使用された実物大の回天模型が阿見町に寄贈されています。今回その実物大模型を展示し、特攻兵器「回天」を強く実感していただくことにより、戦争の空しさを考え、平和を希求する心を作り出していただくための展覧会を構成したいと考えています。

 実は回天作戦には、茨城県出身の方、また土浦海軍航空隊出身の方(甲飛13期生)が多く関係しており、戦死者も多数を数えています。

 残念ながら、現在の小・中生にはアメリカと戦争をしていたことさえ知らない人も多くいるようです。

 今回「回天」の特別展を開催するに先立ち、太平洋戦争、予科練、特攻、そして回天に関する特別授業を阿見町内の小・中学生に受けてもらいました。

 皆さんには、今の戦争のない社会は、先の戦争で亡くなった方々が遺してくれたものだということを考えてもらえたようです。

 特別展では児童・生徒の皆さんの感想文をご紹介させていただく予定ですが、ここでもその一例をご紹介いたします。

 

予科練平和記念館に行って考えたことがある。この世界に人間がいる限り争いはなくならないものだと思う。しかし、自分が周りに少し目を配るだけで、周囲はどんどんよい環境になっていくのではないだろうか。さらにその行いが広がっていけば、世界は平和になるものだと思う。だから、私は今の社会を作ってくれた、自分の命を犠牲にしてまで日本を守ってくれた彼らに感謝している。本当にありがとうございます。

 

僕はこれからの人生で戦争を経験することがないのかもしれない。少しのいざこざはあるものの、戦争時に比べたら、現在は限りなく平和と言える。それは、昔、日本のために戦ってくれた多くの人たちがいるからだ。彼らに対して「かわいそう」ではなく「ありがとう」という気持ちをもって生活していきたいと思う。

 

僕の住んでいる阿見町も何度か空襲を受けたそうです。今、僕たちが普通に暮らしている阿見町も攻撃されていたかと思うと、とても驚いたし、また恐ろしいことだと思いました。今、僕たちが平和に暮らせているのも、昔、僕と同じくらいの年齢の人たちが国のために命をかけてくれたおかげだということを忘れずに、感謝して生活していきたいです。そして戦争があったことを忘れないように、僕たちも伝えていきたいと思いました。