2回目の博物館実習が行われました

8月 31st, 2023

こんにちは。学芸員Kです。
8月も終わりが近くなり、秋の到来が近づいてきましたね。
皆さまは秋と言えば何を思い浮かべますか?

さて、タイトルにもあるように、当館では今年度2回目の博物館実習の受入を行いました。
実習の期間は1回目と同じく5日間で、3名の大学生が参加しました。
(1回目の実習のことは、以下のブログにて掲載しています)
https://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=4187

実習中は、資料のクリーニングや広報文章の作成などの学芸員が普段行っている業務を体験していただきました。
そして、今回も実習生にブログの記事を作成してもらいました!
ぜひお読みください!

~ここから実習生が作成したブログです~

こんにちは。予科練平和記念館にて実習をさせていただいている、博物館実習生です。

皆さまいかがお過ごしでしょうか。1日の中で急に雨が降ったり、気温が高かったりと不安定な天気が続いていますね。台風が近づいているというニュースも出始め、天気予報のチェックが欠かせません。

さて、本日は予科練平和記念館の展示の見どころについて話していきたいと思います。
当館には、展示室が7つあります。展示室1~3については、公式X(旧Twitter)にて紹介しているので、是非ご覧ください。

展示室1:https://twitter.com/yokarenpmm/status/1694914068073849021

展示室2:https://twitter.com/yokarenpmm/status/1694907952191119397

展示室3:https://twitter.com/yokarenpmm/status/1694908203924873501

では、まず展示室4「飛翔」から紹介していきます。
この展示室は空と雲がモチーフの部屋となっています。厳しい訓練を終えた予科練生は、遂に戦地へと飛び立ちます。ここで私が紹介したい展示品は、『寄せ書きされた日の丸』です。博物館実習中に、資料からホコリやカビを除去する作業(クリーニング)を経験させていただきました。その内の一つが、別の方の物ですが、寄せ書きされた日の丸でした。
生地はとても薄く、ハケで表面を掃く際には破けないように、と緊張が走りました。特に、生地の端は折れていることが多いため、細心の注意が必要です。展示品を見る際にも、その生地の薄さに気づいていただけたら幸いです。

寄せ書きは、墨を使って、家族や友達、親戚、近隣の方などからの激励の言葉によって埋め尽くされます。この日の丸にも、同期生から熱い思いが籠ったメッセージが書かれています。みなさんは、一つ一つのメッセージから何を感じるでしょうか。

 

続いて、第5展示室の「交流」について紹介していきます。予科練生は、普段規則に従いながら、厳しい訓練を行っていました。このような厳しい訓練の日々を過ごす予科練生を支える様々な施設が、隊内外には整っていました。
隊内にあった「酒保(しゅほ)」はその一例であり、当時の食堂兼売店の役割を果たしていました。酒保ではどんぶりや、お汁粉や菓子のような甘いものを買うことができ、それらをお腹いっぱい食べることが予科練生の楽しみの一つとなっていました。
また、隊外にも「倶楽部(くらぶ)」という場所が存在しました。これは予科練生が外出する際の憩いの場所のことであり、海軍が契約した一般民家が使用されていました。そして倶楽部では、囲碁や将棋、雑誌やレコードのような娯楽品が用意されていました。

一方、日曜日には家族との面会が許されていました。面会は、面会所の他にも酒保や倶楽部、指定食堂(予科練生が行くことが出来る食堂)で行うことができて、水入らずの時間を過ごすことができたのです。この面会時間は、家族と離れて訓練生活を送る予科練生たちにとって大きな励みとなっていました。
このように、予科練生は周辺地域に住んでいた人たちの協力によっても支えられていたのです。

 

次に、第6展示室「窮追」について紹介します。この展示室では昭和20年(1945)6月10日の空襲に関する映像が展示されています。
その日は日曜日で予科練生の休日でしたので、家族が面会に来ていました。しかし土浦海軍航空隊が空襲の標的となり、予科練生だけではなく面会に来ていた家族や周辺に住む住民も多く犠牲となりました。映像では空襲を体験した方々の体験談を見ることができます。展示室内には、空襲で爆撃機から落とされた爆弾の破片が展示されており当時の空襲の恐ろしさを物語ります。

 

第7展示室「特攻」では予科練卒業生の多くが参加し、亡くなることとなった特攻に関する映像をみることができます。
特別攻撃(特攻)とは航空機・木製モーターボートなどに爆弾を取り付けて、人が乗ったまま体当たりすることで敵の艦船を攻撃するというものでした。特攻専用の兵器として人間魚雷「回天」、ロケット推進で体当たりする「桜花」なども使用され、戦死することが前提の攻撃でした。
当館には特攻に関連する展示として、人間魚雷「回天」の実物大模型が屋外にて展示されています。

同じく屋外には海軍戦闘機の傑作である、零戦の実物大模型が展示されています。当館の零戦の模型は初期型の二一型であり、開戦のきっかけとなった真珠湾攻撃で使用されたものと同型です。零戦は多くの型式があり、五二型の零戦は戦争末期に特攻で使用されました。


 

 

是非、予科練平和記念館にお越しの際は、私たちからの見どころポイントに注目しながら鑑賞してみてください。

~ここまで~
以上、実習生の3名が作成したブログでした。
そして、実習生3名それぞれに5日間の実習をふりかえってもらいましたので、ご覧ください。

(Nさん)
皆さんこんにちは、博物館実習生です。
22日より5日間予科練平和記念館にて博物館実習をさせていただきました。
実習の中で、展示のデザイン、コンセプト、歴史調査委員の方の講義、収蔵庫の見学、資料クリーニングやSNS、ブログでの広報活動をさせていただきました。5日間の実習でさまざまなことを学ばせていただきました、学んだ中で特に重要だと感じたものは、情報の伝え方でした。
展示コンセプトやデザインの解説を聞き、文字の大きさや展示のデザインまで含めて来館者の方が分かりやすい展示を心掛けていることが印象深く感じました。
館外への情報発信として、X(旧Twitter)とブログの2つの広報記事を作成させていただきました、実際に館からの情報として発信されるものなので責任を持って書かせていただきました。
X(旧Twitter)は文字の制限がある中でいかに伝えたいことをまとめるか、情報の羅列にならないようにするなどに気を付け、ブログでは制限がない分文章が長くならないよう気を付けるなど、媒体により伝え方を変えることは興味深く感じました。どちらもネットに公開されるものなので、映り込みや個人情報の取り扱いについて十分気を付けなければならないと学びました。
予科練平和記念館での実習の中で学芸員の実際の仕事・技術・心構えはもちろん、戦争の記憶を後世に伝えることの大切さを改めて感じました。5日間ありがとうございました。

(Mさん)
皆さんこんにちは、博物館実習生です。
8月22日から5日間、学芸員の業務を通して博物館について学ばせていただきました。私は、この実習で学びとろうと決めていたことが2つあります。
1つ目は、大学での学芸員課程の授業を受講し、そこで学んだこととの比較をすることです。収蔵庫問題と呼ばれる収集品増加による収蔵庫の圧迫。資料保存の観点からレプリカの作成及び展示。触わることが出来るという流行りの展示方法であるハンズオン展示。など授業で学んだことが再確認できました。一方、化学物質の最適な保管方法の模索や、限られた予算の中での広報やレプリカづくりがなされていることを知り新たな学びも得ました。
2つ目は、歴史、特に戦争史についての伝え方を学ぶという事です。戦争とは、見方により被害者にも加害者にも見えます。歴史の見方は、押し付けるものではないという観点から、予科練平和記念館では、淡々と事実のみを伝える方向性をとっていることを学びました。このことは、展示コンセプトでもあり、来館者への解説スタンスにも活かされています。私自身も、館の雰囲気やコンセプトに沿った広報記事作成を意識し、課題に取り組みました。
この5日間は、貴重な経験と学びが得られた、充実した博物館実習となりました。受け入れをしてくださってありがとうございました。

(Sさん)
皆さんこんにちは、博物館実習生です。私は、8月22日から8月26日の計5日間、予科練平和記念館で、博物館実習をさせていただきました。
実習では資料を展示・説明する際の工夫点や注意点、収蔵庫の見学、資料のクリーニング、広報活動などを学ぶことが出来ました。この中でも私が最も印象に残ったものとしては広報活動があります。
博物館の広報方法には紙媒体の広報やインターネットによる広報がありますが、今回の実習では、X(旧Twitter)による広報と、ホームページのブログによる広報を行いました。自身で作成した文章が博物館の発信する情報に使用されるという事は、他では経験できないことなので、貴重な体験をさせてもらいました。そして文章についても、必要な情報を入れながら字数制限内に収める技術や、誤った情報を防ぐための様々な注意点があること。また、広報活動の際に用いる写真についても、展示ケースや窓の反射に人影が写らないように撮影するという注意点があることを学ぶことが出来ました。
予科練平和記念館の実習を通して学芸員の工夫点、注意点、実際の業務など、その場にいる人だけしか得ることが出来ない経験、そして、後世に語り継いでいくべき戦争の記録を学ぶことが出来ました。5日間、本当にありがとうございました。

実習生たちはこの5日間、積極的に学芸員に質問をし、分からなかったことや知らなかったことを1つでも多く知ろうとしていた姿がKには強く印象に残っています。

実習生の3名の皆さん、お疲れ様でした。

朗読劇が行われました

8月 25th, 2023

皆様こんにちは。学芸員Kです。
8月19日(土)13時30分、予科練平和記念館情報ラウンジにて朗読劇「ぼく モグラになった予科練」を開催しました。当日は70名を超える多くの方にご参加いただきました。
今回のブログでは、この朗読劇の様子をお伝えします。

この朗読劇は、予科練平和記念館歴史調査委員や語り部として長年ご活躍された戸張礼記さん(元甲種第14期飛行予科練習生)の体験談を基にして作成されました。今回は阿見町の高校生が登場し軽快なやり取りを繰り広げる「予科練クイズ」と朗読劇の二部構成で上演します。

写真は、会場の様子です。


13時30分、満員の中で朗読劇が始まります。ハーモニカが奏でる音楽の中でまずは「予科練クイズ」のスタートです。
阿見町の高校生2人が登場し、軽快なやり取りを繰り広げながら、予科練や卒業後の進路、阿見町にあった航空隊、特攻等についてクイズを出し、それぞれ簡単な解説を行っていきます。

一旦、ハーモニカ演奏を挟み、朗読劇「ぼく モグラになった予科練」に移ります。
朗読劇「ぼく モグラになった予科練」は、元甲種第14期飛行予科練習生の戸張礼記さんが経験した予科練生活や青森県での特攻訓練、終戦時やその後について回想する形で話が進んでいきます。

戸張さんは昭和19年(1944)6月1日、甲種第14期(二次)飛行予科練習生として土浦海軍航空隊に入隊しました。
入隊から9ヵ月後、予科練教育は中止となり、戸張さんは青森県の三沢海軍航空隊に転隊しました。
三沢海軍航空隊では様々な訓練ができる環境だったそうですが、突然、多くの一式陸上攻撃機(一式陸攻)が飛来し、その掩体壕作成に従事することになりました。
そして、とある日、三沢海軍航空隊も空襲を受け、飛来した一式陸攻もほとんどが焼失してしまいました。

その後、戸張さんは同じ青森県の大湊海兵団に転隊し、さらに同県石持に移動して特攻の訓練をすることになります。…その特攻隊の名前は、「土竜(どりゅう)特別陸戦隊」でした。

「土竜特別陸戦隊」は、対戦車を想定した特攻です。海岸に深さ1mほどの穴を掘って棒地雷とともに土中で待機し、上陸してきた敵戦車に対して突撃。キャタピラに棒地雷を差し込んで戦車を破壊するというものでした。

1945年8月15日、隊庭にて終戦を知った戸張さんは、最初悔しさで涙が出たそうです。
そして、電車を乗り継いで阿見町の自宅に戻った時、出迎えた母親は号泣していたそうです。

終戦後、戸張さんは父親と同じ教師になるべく、茨城県立師範学校に入学。卒業後、40年ほど教師生活を送られました。
教師生活を送っている間、自分の戦争体験は語らなかった戸張さんですが、定年退職する数日前、学校の郷土史クラブの生徒たちが、戸張さんのもとへ予科練について聞きに来たそうです。その時、「今の子たちは全然知らないんだな」と知り、予科練を単なる歴史の1ページにしないために、戸張さんは自分の戦争体験を語ることにしました。何も話さない地中に潜ったままの『モグラ』にならないように…。

戸張さんは、予科練平和記念館歴史調査委員や、語り部として長年ご活躍され、数多くの講演をされました。このブログを読んでいる方の中には、戸張さんの講演『知られざる予科練』を聞いたことがある方もいるかもしれません。戸張さんは多くの方に、予科練について、また、自分の戦争体験を伝えてきました。


戸張礼記さんは、この朗読劇が完成する直前、2023年8月8日にご逝去されました。生前のご活躍を偲び、哀悼の意を表するとともに、今回の朗読劇が、多くの予科練生が憧れた空にいる戸張さんに届くことを願っております。

1回目の博物館実習が行われました

8月 8th, 2023

皆様こんにちは。学芸員Kです。
最近は夏らしい暑い日が続きますね。
Kはこの暑さにダウン寸前です…。アイスが手放せません(特に氷系のアイスが好きです)。

さて、公式X(Twitter)では、【学芸員のつぶやきTwitter版】が始まりましたが、お読みいただけましたでしょうか。こちらでは、当館学芸員が様々なことをつぶやいています。
興味を持たれた皆様!以下のURLから見ることが出来ますので、ぜひご覧ください。毎週木曜日更新です。

以上、ちょっとした告知でした。

タイトルにも書きましたが、当館では大学生の博物館実習の受入を行いました。
この博物館実習は、大学の学芸員課程の授業の1つとして設定されており、学芸員資格の取得を目指す大学生が実際に博物館等へ実習に行き、博物館の実態や学芸員の業務を学ぶために行われるものです。この実習の期間は5日間で、3名の大学生が参加しました。
この実習では、資料のクリーニングや広報文章の作成など、普段当館の学芸員が行っている業務を体験していただきました。
そして実際に、この実習期間で、実習生にブログの文章を作成してもらいました!
ぜひお読みください!

~ここから実習生が作成したブログです~

皆様こんにちは。予科練平和記念館で博物館実習中の実習生です。
学芸員資格取得を目指して実習に励んでいます。

皆様いかがお過ごしでしょうか?
8月に入りましたが、35度を超える日も多くまだまだ猛暑が続いています。
こまめに水分補給をとるなど、くれぐれも熱中症にはお気をつけください。

 

さて、今回は「予科練平和記念館」と予科練平和記念館のある「阿見」と「予科練」の関りについてお話します。


まずは予科練平和記念館についてです。
予科練平和記念館は平成22年(2010年)2月に開館し、今年で13年目を迎えました。開館以来予科練の事実を後世に継承し、戦争を知る世代と知らない世代の交流の場となることを目的に活動を続けています。予科練や海軍、阿見に関する資料約2万点を収集保管しており、そのうち191点を入隊から特攻までの7つのキーワードに分け展示しています。


続いて「阿見と予科練」についてです。
大正期の霞ヶ浦海軍航空隊の設立後、昭和14年(1939年)に海軍飛行予科練習生、いわゆる「予科練」が横須賀から阿見に移転したことに「阿見と予科練」のはじまりを見ることができます。以後終戦までの間、この地で全国の予科練での教育や訓練の中心的な役割を担ってきました。そもそも予科練とは多くの飛行機搭乗員を多く育てることを目的に海軍が設立した教育機関で、対象は14歳から17歳までの少年たちでした。終戦までの15年間で約24万名が入隊しましたが、戦争末期の「特攻隊」としての出撃を含め約1万9千名が戦死しています。


また阿見をはじめとした周辺の地域にも、予科練はさまざまな影響を及ぼしました。民家を借り休日を過ごす「倶楽部」や「指定食堂」が置かれる等、阿見と予科練の関係は人々の交流にまで発展するものでした。一方、阿見は予科練をはじめとした海軍の施設があることから昭和20年(1945年)6月10日の空襲では米軍の爆撃目標となり、海軍関係者や予科練生だけでなく阿見の人々も数多く犠牲となりました。

 もうすこしで8月15日がやってきます。この夏、涼しい館内で阿見と予科練の視点から戦争や平和について考えてみるのはいかがでしょうか?大変暑い中ではありますが、ご来館をお待ちしております。

また館内20世紀ホールでは「戦地へ届いた手紙 想いよ届け戦場へ」と題した企画展も開催しています。当館に足を運ばれた際には、ぜひ常設展と併せご覧ください。

~ここまで~
以上、実習生の3名が作成したブログでした。
そして、実習生3名それぞれに5日間の実習をふりかえってもらいましたので、ご覧ください。

(Yさん)
皆様こんにちは。博物館実習生です。
今まで私の中では戦争や平和を伝える上で「何を伝えるか」ばかりが先行してしまうものでしたが、予科練平和記念館での博物館実習を通じ、館内の説明や展示の方法、広報やデザイン等様々な観点を含め「どう伝えるか」「どう受け取ってもらうか」を考慮することも重要であり、意識しなくてはいけない事項であるということを痛感しました。
実習期間中はクリーニング作業として実際に戦時中の資料に触れる機会がありました。それぞれ手紙や教科書、寄せ書きと形態は勿論、状態も異なるものでしたが長い年月の中で人々を通じ伝えられてきたという奇跡のような事実とともに、当時を語る「モノ」が置かれている状況の危機も実感するものでした。課題を抱えつつも地域を含めた記録や記憶の保存と継承に取り組む予科練平和記念館の活動に改めて感銘を受けるばかりです。
5日間という期間でしたが、地域に根差し戦争や平和に関わる博物館の実際について、深く学びを得ることができ、大変意義深いものでした。ありがとうございました。

(Hさん)
皆さんこんにちは博物館実習生です。
私は8月1日~5日の間、予科練平和記念館にて博物館実習をさせていただきました。8月ということで連日大変暑い中でしたが、暑さに負けず取組みました。
実習では、学芸員の方による講義や資料クリーニング、ブログ・Twitterの広報記事作成など行いました。印象に残ったものとしては収蔵庫の見学になります。収蔵庫では約2万点のものが保管されており、あまりの多さに驚きました。当館では他の博物館同様、収納スペースが限られており、すでに大部分が収納スペースに占めているといった博物館ならではの問題について、実際に目にすることができ、貴重な体験ができました。
また印象に残ったものとして、館外にはなりますが、当館付近にあるりんりんロードで、地域住民の方がよく利用されていたことが印象に残りました。
実習を通じて、学芸員にとって必要な知識や技術について学ぶことができ、私にとって本当に貴重な体験をさせていただきました。本当にありがとうございました。

(Tさん)
こんにちは、博物館実習生です。
 私は8月1日からの五日間、予科練平和記念館にて博物館実習をさせていただきました。
 実習では学芸員の方による当館についての概要。収蔵庫見学や資料クリーニング、広報活動
についての講義を受けた後、実際に資料のクリーニングやTwitter、ブログの記事を作成しました。
 印象に残ったことは資料のクリーニングにおいてその資料の素材によって変わることや、クリーニング中でもその資料がいつ頃の出来事なのかを注目して作業していることで情報が入り、資料台帳の作成など次の業務にも効率よく行えることを学び、貴重な体験ができました。
実習を通して、たくさんのことを学ぶことができ、貴重な体験をさせていただきました。本当にありがとうございました。

実習生たちはこの5日間、1つでも多くのことを学ぼうと一生懸命に取り組んでいるのが、とても強くKの印象に残りました。

実習生の3名の皆さん、お疲れ様でした。

―追記―
本年度、当館では2回博物館実習が行われます。第2回目の参加者の皆さんにもこのようなブログを作成してもらいますので、その際もぜひご覧ください。

令和5年度第1回予科練平和記念館講演会を開催しました

7月 27th, 2023

皆様こんにちは。約1年ぶりに筆を執りました学芸員y改めKです。
Yによるブログが復活しましたので、yでは混同してしまうため、Kに改名しました。
今後ともよろしくお願いいたします。

さて、予科練平和記念館では令和5年(2023)6月24日(土)に講演会「元予科練生が体験したシベリア抑留~3年3ヶ月の記憶~」を開催しました。当日は56名の方にご参加いただき、講師である元海軍乙種第23期飛行予科練習生の篠原吉宗(しのはら よしむね)さんのシベリア抑留時の経験をお聞きいただきました。

今回のブログでは、講演会に参加できなかったという方のために、今回の講演会の内容を写真とともに振り返っていこうと思います。

~講師紹介~
 昭和4年(1929)6月6日に茨城県東茨城郡渡里村にて生まれました(現在は水戸市と合併し、水戸市渡里町となっています)。
昭和19年(1944)8月に乙種第23期飛行予科練習生として土浦海軍航空隊に入隊し、同月人吉海軍航空隊に派遣。
昭和20年(1945)2月には朝鮮にあった元山(げんざん)海軍航空隊に派遣されました。
同年8月、元山にて終戦を迎えた篠原さんは、当時のソ連による武装解除を受け、元山より北にある興南の港まで向かい、帰国の想いを持って乗船しますが、着いたのはソ連の港町でした。そこから、3年3ヶ月にわたって壮絶な抑留生活を経験されました。
篠原さんには令和4年(2022)10月8日にもご講演いただいており、第2回目となる今回はシベリア抑留時のお話を中心にご講演いただきました。


まずは、会場の写真です。令和4年度の講演会は当館20世紀ホールで行われましたが、今年度からは情報ラウンジでの開催となりました(コロナ禍前の状態に戻りました)。


会場には、講師の篠原さんが実際に着用していたドイツ女性将校の外套を展示しました。また、スクリーンには、講師自作の資料を投影し、参加された皆様にも配布資料としてお渡しいたしました。


また、今回の講演会は好評につき、当日席を設けました。当日は10名ほどご参加いただきました。


13時30分、講演会が始まりました。篠原さんによるシベリア抑留の体験談は、とても生々しく、貴重なお話でした。この講演会はアシスタントと篠原さんによるインタビュー形式で行われましたので、質問事項と篠原さんの体験談をまとめていきます。

Q1:終戦時の様子をお教えください。
8月15日は、元山海軍航空隊は通常通り特攻訓練を行っていました。その後、8月23日にソ連による武装解除があるまでが大変でした。朝鮮の方々が航空隊の周囲を囲んでいるような状態でした。そのような中で、航空隊の水道が止まりました。日常生活で必要な水をどのように調達していたか、それは航空隊内の防火水槽でした。ただし、夏の暑い時期なので、防火水槽には蚊の子ども(ボウフラ)が湧いていました。ボウフラ入りの水で炊いたご飯は、当初はとても食べれたものではありませんでしたが、空腹には耐えられず、2日、3日経つと皆食べていました。

Q2:昭和21年(1946)6月14日、日本への帰還を期待に込めて乗船した篠原さんでしたが、その船はソ連の港町ポシェットに到着しました。そこから、3年3ヶ月にわたる抑留生活が始まります。抑留された最初の頃は、どのような仕事を行っていましたか。
抑留された初期は、シベリア鉄道に沿って、所々で作業を行っていました。その後はモスクワ郊外のクラスノゴルスクにあった収容所(ラーゲリ)に収容されました。この収容所は、ロシア革命の時に当時の皇帝の側近達を収容していたと言われている収容所でかなり年季が経っていました。また、移動の際は、キーウも経由していました。

Q3:クラスノゴルスクの収容所には、どのような方がいましたか。また、どのような経験をされましたか。
クラスノゴルスクの収容所には、日本を含め、ドイツ等複数の国の人が収容されていました。他の国の人は国境が地続きであるため、隣国の言葉を覚えており、会話が出来ましたが、どの国とも国境が接していない私達は最初の頃は会話ができませんでした。しかし、ロシア語を覚えると、ロシア語でコミュニケーションをとれるようになりました。


Q4:ある朝起きたら、隣の方が亡くなられていたという経験をされたそうですが、その際は、どのようにされましたか。
ある朝起きたら、隣の人が起きてきませんでした。「朝食の時間だぞ」と呼び掛けても起きてこなかったので、近くに行ってみたら、息をしていませんでした。医者に診てもらったところ、近くの山に埋めてこいとのことでした。自分たちで亡くなった方を運び、白樺が続く山の中に亡くなった方を埋めました。その際、着ていた衣服は貰い、自分達の防寒着にしました。そうしないと、シベリアの寒さには耐えられませんでした。

Q5:現地の女性、エレーナさんとの思い出をお聞かせください。
私達がある工場に働きに行っていた頃、男性はほとんどが兵士になっているため、工場には女工さんが多くいらっしゃいました。歳は大体16歳~20歳くらいでした。彼女たちはお昼休みの時に私達の所に来て、会話をしていました。当時は若かったので、ロシア語を2、3回聞けば話すことが出来ましたので、私も覚えたてのロシア語で会話をしていました。その会話をしていた女工さんの中の1人がエレーナでした。エレーナは私と同い年で、私の昼食を見て、これでは足りないだろうと監視から隠れながら黒パンを分けてくれました。今思えば、自分の朝食の残りや昼食を削って、渡してくれていたんだなと思います。そんなエレーナとも、仕事場所の変更により、最後のあいさつをすることもなく、離れ離れになってしまいました。


Q6:シベリアの寒さならではのトイレ事情があったそうですが、どのようなものだったのでしょうか。
シベリアでのトイレは、日本人と外国の人ではやり方が違いました。日本人は穴の上に板を2本かけて、その上でしていましたが、外国の人は穴の上に柱を立てて、その上に板を通し、そこに座ってしていました。
また、零下30度にもなるシベリアでは、排泄物も凍ってしまいます。それが山のように積みあがっていき、自分達に当たりそうになると、誰かが穴に入って、凍った排泄物の山を砕く必要がありました。私は、抑留者たちの中でも若い方だったので、他の人から砕いてくるように言われて、砕いていました。砕いている時は、凍っているので特に臭いはしないのですが、砕き終わって、暖かい所に行くと、凍っていた排泄物が溶けて臭いがするようになり、周りの人から遠くにいるように言われて、中々温まることが出来ませんでした。

Q7:最後に皆さんへのメッセージをお願いいたします。
皆さん、映画「ラーゲリより愛をこめて」はご覧になりましたか?シベリア抑留と言っても収容された場所によって、異なります。まだ観ていない方はぜひ観てみてください。
また、現在、ロシアがウクライナに侵攻しています。侵攻とは宣戦布告のない戦争です。戦争は人を殺せば殺すほど褒められる。狂っています。戦争はやってはいけないことです。

今回の講演会は90分で、13時30分から15時00分まで、篠原さんには多くの体験談をお話いただきましたが、この90分はとても濃い時間で、まだまだ篠原さんのお話を聞いていたいくらいでした。


講演終了時の様子です。篠原さんは現在94歳ですが、活力にあふれており、講演を通してこちらが元気をいただいたように感じました。

ここで、講演会に参加された方からいただいたアンケートを一部ご紹介いたします。(アンケート書面にて掲載の許諾をいただけた方のもののみになります。)

・7年前に他界した父と同じ歳の方の話が聞けてとても良かったです。
・篠原さんが体調が回復され、貴重なお話しをきかせていただきましてありがとうございました。シベリアでの抑留と聞き、ロシア人は日本人を敵視しているのかと思いましたら、人を大事にされたと聞き、驚きました。人は人を思う気持ちが国を越えてもあるのだなと思いました。
・当時戦争を体験した方のお話を聞けたのはとても貴重だと思いました。時間があっという間に感じました。

この他にも多くの方からアンケートのご回答をいただきました。ご協力いただきありがとうございました。皆様からのアンケートを基に、より良い講演会を開催できるよう邁進してまいります。

今年度1回目の講演会は大盛況のうちに閉幕となりました。次回の講演会を行う際は、またブログや公式Twitter、ホームページにてお知らせいたします。

6月10日のこと

6月 11th, 2023

皆様こんにちは。学芸員Yです。
先日の大雨で被害を受けられた皆様には、心よりお見舞い申し上げます。
お天気予報で雨マークが付くと、先日のような大雨になりませんようにと
祈ってしまいます。
備えあれば患いなし。必要なものを用意しておくと安心につながりますよね。
どうか皆様の心が平安でありますように。

関東地方も梅雨入りし、湿気を含んだ空気が木々の緑をより一層濃くしています。
予科練平和記念館の周りでは、巣立ったツバメたちが電線に止まっています。
お隣の公園で遊ぶお子さんたちの声が聞こえ、お散歩にきたワンちゃん達も
楽しそうにしています。

令和5年6月10日。予科練平和記念館はとても平和です。

78年前の今日、地獄のような光景が広がっていたことが想像もつかないぐらいに。

1945(昭和20)年6月10日、この日は日曜日でした。
午前8時頃に空襲警報が鳴り響き、空が真っ暗になるぐらいのB-29の編隊が飛来しました。
予科練習生の訓練基地だった土浦海軍航空隊を主目標として250㎏爆弾が多数投下され、
爆風、熱風、火災、爆発で飛び散った爆弾の破片などで、あたりの景色は一変しました。
今の高校生ぐらいの予科練習生たち、彼らの教官たち、基地で働いていた人たち、
周辺の方々、面会に来ていた人たち。
もし私たちが時空を超えてその場に居合わせたら・・・本当に恐ろしい光景を目の当たりにしただろうと思います。

この空襲で300名以上の死傷者が出てしまいました。
遺体は土浦海軍航空隊適正部(現在の土浦第三高等学校)に運ばれ、重ねられて
荼毘に付されました。
どれだけ無念だったか、悲しかったかと思うと胸が痛みます。

 

毎年この日には、土浦第三高等学校のお隣にある法泉寺(土浦市大岩田1616)にて
空襲の犠牲者の法要が営まれます。
参加者は高齢化などで減ってしまったようですが、ご住職様にお話をうかがったら、法要の時間に来て下さればどなたでもご参加いただけるとのことでした。

法要の後は、参加者全員で慰霊碑や供養塔にお線香を手向けます。

もともとこの慰霊祭は、体験者で結成された「一四(ひとよ)さくら会」が主催していたそうです。
会長の清水さんは現在95歳、毎年東京から慰霊祭にご参加なさっておられます。
少しお話ができまして、また来年お会いしましょうと言っていただけました。

ぜひ、また来年もそのお約束をさせてください。
そのまた来年も、お約束をさせてください。
いつまでも、どうぞお元気でいらしてください。

予科練平和記念館では、この空襲についてたくさんの方に知っていただきたく、
毎年6月10日は展示を無料でご覧いただける日としています。

よろしければ、皆様もまた来年、ぜひご来館ください。
そして、法泉寺さんのご法要にもご参加なさってみてください。
職員一同、皆様のご来館をお待ちしております。

シベリア抑留と予科練習生

6月 7th, 2023

皆様こんにちは。学芸員Yです。
だいぶ蒸し暑い日が多くなりましたね。
皆様はいかがお過ごしでしょうか。

お久しぶりの投稿になってしまいました。
こちらのページをご覧下さった皆様、ありがとうございます。
不定期ではありますが、Twitterなどでは発信しきれない情報を
ブログでもお伝えしていければと思いますので、これからもどうぞ宜しくお願いいたします。

本日は、元予科練習生の講演会のご案内です。
予科練生でありながらシベリア抑留もご経験なさったという、もう
ここでしか聞くことのできない大変大変貴重なお話をじかにお聞きいただける機会です。

今回お話ししてくださる篠原吉宗さんのご経歴を紹介しますと、
昭和4(1929)年6月6日生まれの94歳。
乙種第23期の予科練習生として昭和19(1944)年8月15日に土浦海軍航空隊に入隊し、同月熊本県にあった人吉海軍航空隊に派遣されました。
入隊した時は15歳。今で考えたらまだ中学生の少年ですね。
年があけて昭和20(1945)年2月に、現在の北朝鮮にあった元山(げんざん)海軍航空隊へ派遣されました。
もうこの頃は予科練生と言ってもパイロットになる訓練をすることは難しく、
飛行機の整備等にあたることも多くなっていました。
このとき元山海軍航空隊は特攻隊の基地になっていて、篠原さんは特攻隊員の方が
訓練をしているのを見ながら特攻機の整備をされていたそうです。
そして8月15日、終戦。
現地の人たちが赤旗を立てて隊のまわりを囲い、生きた心地がしなかったそうです。
8月23日、当時のソ連(現在のロシア)軍がきて捕虜になってしまいました。
ここから、篠原さんの3年3か月に及ぶ抑留生活が始まることになります。
抑留期間中の筆舌に尽くしがたい労苦、仲間の死、現地の女性との交流。
壮絶、としか表現することができない体験をなさった篠原さん。
この令和の時代に、お元気な篠原さんのお話をうかがうことができることに感謝しかありません。

今回の講演会では、主に篠原さんのシベリア抑留の経験についてお伺いする予定です。
講演会は会場の関係上定員を設けており、事前予約制となります。
予約は6月7日(水)からお電話にて承ります。
お席が埋まってしまう可能性もございますので、よろしければお早目にご連絡いただけましたらと思います。
皆様のご予約をお待ちしております。

 

『元予科練生が体験したシベリア抑留~3年3ヶ月の記憶~』
開催日時 令和5年6月24日(土)13:30~15:00
開催場所 予科練平和記念館情報ラウンジ
定員   50名
事前予約制 6月7日(水)スタート 開館時間内にお電話で予約を承ります。

来館者が60万人になりました

4月 19th, 2022

今年度より予科練平和記念館の学芸員となりましたyと申します。

これから頑張ってまいりますので、よろしくお願いいたします。

4月も中旬になり、新年度が始まってから少し時間が経過しました。阿見町でも先日まで桜が綺麗に咲き、新年度の開始を祝福しているかのようでしたが、今は緑の葉が茂り、落ち着いた様相を見せています。

当館は今月17日に開館からの来館者が60万人に達しました。記念すべき60万人目となったのは、千葉県市原市から来られた親子2人の皆様でした。

千葉町長と立原教育長から認定証や花束、記念品などを贈呈し、記念として零戦の実物大模型に搭乗していただきました。

当館は平成22(2010)年2月に開館してから毎年5~6万人のお客様にご来館いただいており、臨時閉館していた時期もありましたが、12年と2か月で累計の来館者が60万人となりました。これまで大勢の皆様にご来館いただき、深く感謝申し上げます。

既に来館された方でも、当館の展示資料をすべてご覧になるには、限られた時間では難しいかと思います。ぜひ再度の来館を心よりお待ちしております。また、何度も来館いただける方に、お得な「年間パスポート」をご用意しております。なお、当館では現在、30分ごとの入館者数を25名に制限し、マスクの着用や入り口での検温実施などの感染症対策を実施しております。

これからゴールデンウィークもあり、行楽日和となりますが、新型コロナウィルスの感染者数は依然として高いまま推移しています。

当館では感染症対策を実施の上、連休中も5月2日(月)、9日(月)を除いて開館しております。ゴールデンウィークの連休を機に予科練とはどのようなものだったのかを学びに来館されてはいかがでしょうか。

皆様のご来館お待ちしております。なお、ご来館される際には、電話(029-891-3344)での事前予約をお願いいたします。

臨時休館継続中です

9月 1st, 2021

皆様こんにちは。学芸員Yです。

9月に入り、当館がある茨城県阿見町はぐっと涼しくなりました。

皆様はいかがお過ごしでしょうか。

 

さて、新型コロナウイルス感染拡大の状況下で、予科練平和記念館は

今年5月から臨時休館を継続しています。

本来であれば、特に8月は終戦記念日があることもあって、多くの皆様が

戦時の歴史に関心をお持ちくださる時期なのですが、

残念ながら今年は開館が難しい状況でした。

 

ですが、臨時休館中だからこそできたこともたくさんあります。

状況に合わせてその時にできることを精一杯やっていくしかないのかもしれないし、

その中で、今までとは違ったよいやり方やアイデアがでてくるのかもしれないなと思っています。

 

当館でも、これを機に動画の配信やバーチャルツアーなど、

もっとリモートでみなさんとつながることができる企画もできたらよいなと

思っている一方で、そもそもの力量不足や人員不足などの

現実と理想のはざまで、結局は目の前の仕事をこなすのに精一杯になってしまったり。

 

そんな中ですが、ブログを活用して閉館中の状況をお伝えすることでしたら

すぐにできるかなと思い、

今回は臨時休館中の現在、館内ではどんなことをしているか、をご紹介してみたいと思います。

 

休館中の館内では、普段はなかなかできないお仕事をしています。

その一つが資料のクリーニングです。

 

 

写真は、1939(昭和14)年3月1日に発行された『画報躍進之日本』という雑誌です。

きれいなカラーの月刊誌で、愛読者用なのか、1年分をまとめて綴っておける

オリジナル表紙がついています。

クリーニングしてくださったTさん曰く「元祖〇ィアゴス〇ィーニですね!」

はい、そんな感じです!

 

阿見町内の古い蔵から複数冊まとまって見つかったもので、かなりほこりをまとっています。

虫やネズミによる食害も多く、カビが生えた跡も見られますので、

なかなかハードな状態です。

ここから1ページ1ページ丁寧に状態を確認しながら刷毛をかけていきます。

根気のいる作業ですが、資料を末永く保管してくためには

必ずやらなければならない大切な作業です。

 

本誌のページをめくると、当時の雰囲気がよく伝わってきます。

 

 

“空から見たサハラ大砂漠” 異国情緒あふれます。

 

“昭和の大横綱”双葉山の記事もありました。

 

双葉山関は土浦海軍航空隊(現在の武器学校一帯)に慰問にいらしたことがあり、

予科練習生たちと撮影した写真が残っています。

そういえば元横綱稀勢の里関、現在は荒磯親方が阿見町に部屋を構えてくださるとのことで、

相撲に縁がある町なのかもしれないなと想像し、一人楽しくなっています。

 

クリーニングが終わった後は、1点1点に独自の番号を付けて管理します。

写真を撮ったり、所蔵している資料の台帳データに入力したり、

特殊なガスでカビや虫をやっつけたりと、これからも作業は続きます。

普段は忙しくて、正直こうした細かい作業は後手に回ってしまうことも多いのですが、

現在は休館しているので、落ち着いて進めることができています。

せっかく現在まで残った大切な資料ですので、永く後世に伝えていきたいものです。

 

予科練平和記念館では、予科練に関するもの以外でも、陸軍関係のもの、

当時の生活で使用していたものなども収集しています。

もしブログをお読みの方で、そうしたものをお持ちで保管に困っていらっしゃるようなことが

ありましたら、よろしければ当館にご一報ください。

寄贈のご相談だけではなく、今後も手元に置きたいけれど

どのように保管していったらよいか等のアドバイスもさせていただいております。

あまり言うとうさん臭くなるかもしれませんが、どうぞお気軽にご相談くださいね。

 

不定期ではありますが、今後もブログにて館の様子をお知らせしていきたいと思います。

それでは、また次回お会いしましょう!

気温の変化で体調を崩しやすい時期ですので、皆様どうぞご自愛くださいね!

 

 

古関裕而さんと阿見町

10月 7th, 2020

みなさんこんにちは。学芸員Yです。

朝晩の空気の冷たさ、キンモクセイの香りに秋を感じますね。

いかがお過ごしでしょうか。

 

予科練平和記念館では、先週末10月4日(日)に戦後75周年交流展「7つのテーマで知る

シベリア抑留」が終了いたしました。

この特別展は、東京・新宿にある平和祈念展示資料館との交流展で、同館が所蔵している

シベリア抑留関係の資料を、予科練の7つボタンにちなんで7つのテーマで展示していました。

コンパクトな会場ながら内容の濃い展示でしたので、反響も大きかったように思います。

ご来場くださいましたみなさま、ありがとうございました。

 

 

現在は展示を撤去し、講演会スタイルに模様替えしました。

今後は講演会などの予定も徐々に復活させていこうと考えております。

詳細は決まり次第館のホームページやTwitter、Facebook等でお知らせいたします。

 

 

さて、みなさんは現在放送中のNHK朝の連続テレビ小説“エール”をご覧になって

いらっしゃいますでしょうか?

 

“エール”特設サイト

https://www.nhk.or.jp/yell/

 

 

ちょうど今日、俳優の窪田正孝さん演じる古山裕一(古関裕而がモデル)が

土浦海軍航空隊に来隊し、“若鷲の歌”を作曲するという場面が放送されましたね。

 

国のために厳しい訓練に明け暮れる予科練生の姿に触れ、彼らに寄り添う曲をと

裕一が一晩で書き上げた哀愁を帯びたメロディ。

少し幼さが残る予科練生たちが合唱する姿が、歌の力と、その後の彼らを待つ

運命を予感させるような、少し胸がざわつく感じの終わり方でした。

 

 

ドラマでは、裕一が土浦海軍航空隊で予科練生たちの訓練を体験し、

彼らの話を聞いて一晩で曲を書き上げた、というストーリーになっていました。

実際には、古関がすでに作曲していた勇ましい長調の曲を携えて常磐線に乗り、

利根川を渡って茨城県に入った頃、ふと頭に短調のメロディが浮かび、

土浦海軍航空隊で教官と練習生にどちらも聞かせたところ、教官たちは

勇ましいほうを選び、練習生は哀愁を帯びた短調のメロディを選んだ、

この短調のほうが現在も歌い継がれる“若鷲の歌”になった、というのは有名なエピソードです。

当時、レコードの販売数が戦時下にも関わらず23万枚という大ヒットで、

「露営の歌」とともに古関裕而の人気を確固たるものにした記念碑的な曲です。

 

“若鷲の歌”は、予科練生たちにとっても、結束を促し、自分たちのアイデンティティを

より強固なものにする役割を果たしていたようです。

 

1945(昭和20)年6月10日、土浦海軍航空隊はアメリカ軍のB-29爆撃機により

大規模な空襲に見舞われました。

この時の状況について元予科練生が次のように証言しています。

少し怖い表現がありますので、苦手な方はスルーなさってください。

 

 

・・・6月10日の空襲だけは、今でも年に何回か夢をみてうなされ、冷や汗をかいて

目が覚めることがある。恐ろしくて上空の敵機の飛行方向を見て逃げる方向を

判断する余裕もなく、練兵場ならば広いから逃げ場所があるのではとひたすら走った。

 みんなで走っている途中で、茨城県西出身のSがバッタリ倒れた。

「S、どうした。ここにいては危ないぞ!」と怒鳴ると、「俺の足がないんだ!」との返事。

よく見ると、たった今、眼前で炸裂した爆弾の破片がSの左足の踵の上部を貫通して

足が入ったままの靴がSの二メートルも先に吹っ飛んでいる。

 血だらけの足が入った靴をSに渡すと、Sは気丈にも「ここにいては危ない、

一刻も早くここを離れろ。俺はここにいる。後で来い。」と、言う。

 悪夢のような空襲が終わった後、急いでSの所に戻ると顔は青ざめて出血もしていたが、

気丈なSが自分自身でやった応急処置が良かったためか、予想以上に元気だった。

 早速、四名の隊員でSを担架に乗せて霞ヶ浦海軍病院まで歩いて運んだ。

途中、Sを元気づけるために若鷲の歌を歌いながら歩いたように覚えている。途中、長い

長い時間に感じた。(『阿見と予科練』より抜粋)

 

 

 若鷲の歌を歌いながら血だらけの同期生を担架で運ぶ予科練生の姿を想像すると、

何とも言えない気持ちになります。

 何に頼ることもできない極限状態の彼らを支え、俺たちは予科練だ、負けるものかと

友を運ぶ足を前に進める力をくれたのが若鷲の歌だったのでしょう。

元予科練生が当館によくいらしていたころ、若鷲の歌を歌ってくださる方も

たくさんいらっしゃったなぁ・・・と、ちょっと寂しい気持ちで思い出しました。

 

 

 予科練平和記念館では、若鷲の歌のワンフレーズが書かれた

古関裕而さんの色紙を展示しています。

 また、“エール”で予科練を紹介する際に使われていた映像も

館内の展示室でご覧いただくことができますよ。

古関裕而さんの色紙と若鷲の歌のレコードです。

展示室1「入隊」で展示しています。

 

 

予科練平和記念館がある阿見町は、実は古関裕而さんとつながりが深いのです。

町内には小中学校が全部で10校ありますが、町立阿見第二小学校と、町立朝日中学校の

校歌は、古関裕而さんの作曲なんです。

 

朝日中学校は1980(昭和55)年に新設されましたが、初代の校長先生は

なんと!元予科練生です。

1943(昭和18)年5月に乙種第20期予科練習生として土浦海軍航空隊に

入隊した仲川武男さん。初代の朝日中学校校長先生としての体験を次のようにお話ししてくださっています。

 

 

 ・・・初代の校長でしょう。校歌はなし、校訓はなし何もないでしょう。それで困った。

まず校歌、校訓を作らなきゃならない。そこで白羽の矢を立てたのが、予科練の「若鷲の歌」を

作ってくださった古関裕而先生。あの先生は私が昭和18年に予科練に入隊し

基礎訓練中に東京からおいでになり作曲を披ろうしてくれた方です。

 そういう恩恵があったかそれが縁かなにか分かりませんが、ちょうど古関先生の弟さんが

阿見においでになってます。その弟さんも何かの拍子で知り合いになったから援助してもらい、

古関先生に作曲してもらいました。作詞は「高校三年生」の丘灯至夫先生。

 ・・・二回くらいかな古関先生の家までお邪魔して、いろいろとお話ししてお願いしてきました。

(『続・阿見と予科練』より抜粋)

 

 

古関裕而さんが土浦海軍航空隊にいらした時、仲川さんも予科練生として同じ場所にいらっしゃり、

後年ご自身が校長先生になられた時に、また古関裕而さんとつながって、

たくさんの生徒さんたちが歌う校歌が誕生していたんですね。

 

実は、当館で展示している古関裕而さんの色紙は、この仲川武男さんが寄贈してくださったものです。

不思議なご縁がつながっているなぁと感じます。

 

 

古関裕而さん、丘灯至夫さんは生まれ故郷の福島県に記念館があります。

こちらもよろしければチェックしてみてくださいね。

ご来館の際には、開館状況やコロナウイルス対策の状況などをホームページやお電話でご確認いただけると確実です。

 

古関裕而記念館

https://www.kosekiyuji-kinenkan.jp/

 

丘灯至夫記念館

https://www.town.ono.fukushima.jp/soshiki/13/toshio-oka.html

 

 

 

 

 

 

弱虫ペダルスタンプラリーやってます

9月 29th, 2020

みなさんこんにちは。学芸員Yです。

日増しに秋の気配が深まってきていますね。

いかがお過ごしでしょうか。

 

あの・・・予科練平和記念館には、多分ですが、本当に時間を食べる何かがいるかもしれません。

日々コロナ対策に振り回されてしまい、こんなにブログに時間を割けないとは・・・。 

前回の更新から1か月以上経ってしまいました・・・。

いや、自分の怠慢なのだと思いますが、それにしても、と言う感じです。

しかし今年もあと3か月。気合を入れなおしてアップしていきたいと思います。

 

 

さて、予科練平和記念館では、11月30日(月)まで

「弱虫ペダルデジタルスタンプラリー ウォーク&ライド」に参加しています。

 

「弱虫ペダル」は、現在「少年チャンピオン」で連載されている人気少年漫画で、

アニメ化もされています。

コミックスはなんと68巻まで出ているそうです!

今年の夏には、アイドルグループKing&Princeの永瀬廉君主演で実写映画化された

今とても勢いのある作品なんです。

 

 

このデジタルスタンプラリーは、茨城県南15か所に配置された

弱虫ペダルのキャラクターのポスターについているQRコードをスマホで読み込むと

スタンプをゲットできるというもので、

スタンプをためるとオリジナルクリアファイルなどがもらえます!

 

お隣の土浦市にあるJR常磐線土浦駅には、主人公小野田坂道君のポスターと、

主要キャラの等身大パネルやフォトスポットもありますよ。

 

詳しくはコチラ↓

https://arweb.jp/playatre/

 

 

そして、当館に来てくれたのは「青八木 一(あおやぎ はじめ)」君です!

青八木くんのQRコード付きポスターは、予科練平和記念館の外にある

正面入り口付近の掲示場と、館内ラウンジの掲示板の2か所に設置しています。

外にある掲示板は、予科練平和記念館が閉館している時でも撮影OKです!

館内ラウンジの掲示板は、どなたでも自由に出入りできるフリースペースにございますので、

もしよろしければこちらもご覧になってください。

館内にいる青八木君のほうが、ポスターのサイズが大きいですよ!

 

↑館の外正面入り口付近の掲示版

 

館の入口を入って突き当りを右に曲がっていただくと、

大きい青八木君がいます。

 

 

また、予科練平和記念館は広域レンタサイクルの貸出ステーションにもなっています。

WEBからご予約いただき、予科練平和記念館で自転車を借りて、

霞ヶ浦や筑波山を見ながら気軽にサイクル旅が楽しめます!

ご利用のお客様を見ていると、思ったより遠くへ行ってしまった、という方や

すてきに日焼けして帰ってこられる方など、みなさん楽しそうです。

マスクを外して、深呼吸しながら全力で自転車を漕いだら、きっと気持ちがいいですね!

貸出できる自転車は、ロードバイクやクロスバイクのほか、お子様用や二人乗り用など

用途に合わせてご用意があります

もしよろしければ、この秋のアクティビティ候補に加えてみてくださいね。

 

詳しくはこちら↓

https://www.ringringroad.com/rentalcycle/

 

 

今週木曜日、10月1日は中秋の名月です。

いろいろと先行きが見通せず、ともすれば気持ちが落ち込んでしまいがちなニュースが

日々目に飛び込んでくるこの頃。

この日の月がとっても美しくて、みんなが月を見上げてちょっとほっとして、

少し気持ちが軽くなる日であったらいいなぁと思っています。

みなさんの日々が、少しでも心安く穏やかでありますように。

すてきな名月をおむかえくださいね。